北上高地の製鉄業の歴史は古いようですが、中世までの様子はよくわかっていません。江戸時代に入ると、仙台藩の磐井郡大籠(いわいぐんおおかご・現在の藤沢町)や折壁(おりかべ)、津谷川(つやがわ・ともに一関市室根町)、気仙郡の世田米(せたまい・住田町)などで製鉄が始まったといわれます。言い伝えでは永禄年間(1558-1570)に土佐と対馬という2人が備中(岡山県)の千松大八郎・小六郎兄弟に弟子入りし、その技術を学んで大籠で製鉄を始めたといいます。慶長3年(1598)伊達政宗の岩出山築城に際し鉄1,600貫目、同5年(1600)の仙台築城に鉄2万貫目、さらに同7年(1602)には5万貫目を上納したという記録が残っています。大籠に隣接する馬籠(まごめ・宮城県本吉町)には、佐藤十郎左衛門という人が中国地方で製鉄を学び、慶長10年(1605)にこの地で製鉄を始めたという言い伝えがあります。
盛岡藩ではこのころ、田野畑村や普代村、山形村(現 久慈市山形町)や大野村(現 洋野町)などで製鉄業が成立し、九戸郡一帯は製鉄の中心地として栄えたと言われています。17世紀には近隣諸藩に鉄の移出を始め、18世紀中期に中国地方から最新技術が取り入れられて生産量が増加すると、東廻り海運を利用して仙台藩、相馬藩(福島県)、水戸藩、江戸などの遠隔地にも移出されるようになりました。18世紀後半以降になると、輸送距離が短く運賃の安い南部鉄は備中鉄との競争に打ち勝ち、東日本の太平洋岸の市場をほぼ独占するまでに成長しました。仙台藩の製鉄が主に農業との兼業であったのに対し、盛岡・八戸藩の鉄産業は地域の豪農や豪商が資本を投下して行う専業従事者による通年操業で、燃料として大量に使う木炭が豊富だったこともその一因となっています。