盛岡藩では18世紀後半、岩泉の中村屋が経営にたずさわるころから製鉄業が大発展しました。寛政年間(1789-1800)に開発された割沢・室場・板沢・翁沢・田名部の各鉄山は「野田5カ鉄山」と呼ばれ、秋田藩や弘前藩はもちろん、仙台藩や水戸藩にも移出され、南部鉄の名声を高めました。また、文化年間(1804-1817)には問屋も設置されています。内陸への運搬には牛方が活躍し、新しい街道も整備され、帰りの荷では米や雑穀などが運ばれ、山村経済の改善にも一役買いました。
 八戸藩では享和から文政年間(1801-1829)に飛騨(ひだ・岐阜県)の浜屋茂八郎が製鉄業を営み、生産量が増加しています。その後、八戸藩は鉄山を藩営とし、領内の豪商を支配人に任命して経営を行っています。これより先、藩内には「大野6カ鉄山」と呼ばれる鉄山が開発されています。この中の一つ・玉川鉄山(軽米町・県指定史跡)は、天保5年(1834)軽米の豪商・淵沢圓右衛門が経営を命ぜられたことが知られています。