日清戦争後、製鉄所は一層の発展を迎えました。この時期、釜石鉱山は明治34年(1901)の操業開始を控えた官営八幡製鉄所への鉄鉱石調達を命ぜられ、採鉱・運鉱設備の増強を図っています。製鉄所は民間初の銑鋼一貫生産を目指し、明治36年(1903)に体制を整備しています。
 製鉄の活況と共に釜石町(当時)の人口も増え、明治29年(1906)の6,528人から明治44年(1911)には14,925人に増加しています。かつて東廻り海運で賑わった港町は、製鉄所の城下町に変貌していきました。
 大正13年(1924)、製鉄所は田中家の手を離れ、三井鉱山の一翼である釜石鉱山(株)となり、さらにその後、銑鋼業合同の動きによって昭和9年(1934)に成立した国策会社・日本製鐵に参加します。