読み仮名 あっぴがわじょうりゅういきのきじしかんけいしりょう
指定種別 県指定
種別 有形民俗文化財
指定年月日 2010年 3月 2日
指定詳細
数量
所在地 八幡平市叺田ほか
所有者 八幡平市ほか
保持団体
管理団体
ホームページ

概要

浄法寺塗の起源は、天台寺を開創した際、僧侶が寺の什器として製作、使用し始めたのが周辺住民へと広がったと伝えられる。江戸時代には、盛岡藩の重要な産物としてその地位を確立し、金箔をあしらった箔椀は「南部(なんぶ)箔椀(はくわん)」と呼ばれ藩へ納められ、「御山(おやま)御器(ごき)」の名で知られる飯、汁、皿の組椀は庶民椀として他領にも移出された。隆盛は昭和初期まで続いたが、品質の劣る日用漆器が主流となり、浄法寺塗は衰退期を迎えた。
 本資料のうち用具類は、この地方最後の木地師となった藤村金作氏(1912-2002)が使用していた用具や製品見本などで、木地師がどのような用具を用いて木地を挽いていたかを知ることができ、荒型など木地挽きの製作工程を理解するうえで重要な資料である。
 また、文書類は八幡平市赤坂田の関家に伝わるもので、この地方の木地挽集団のリーダー格であった「左衛門四郎」に関わるものである。その多くを占める「伝馬証文」は活動範囲を示す貴重なものであり、全国の木地師の根源地・近江国神崎郡君ケ畑の高松御所が発行した「木地師元祖略御縁起」なども含まれている。
 左衛門四郎は、江戸時代初期には松岡村(二戸市浄法寺町)に住んでいたが、木地となる原木を求めて江戸時代中期には今の八幡平市赤坂田へと安比川流域を移動してきている。安比川流域では、下流域において漆掻きが盛んに行われ、その中間となる大清水村(旧浄法寺町)から荒屋村(旧安代町)にかけての中流域の塗師集落において塗りが行われていた。
 このように木地師の生業を考察するうえで貴重な資料である。

画像