盛岡藩では盛岡・花巻・遠野、仙台藩では一関・水沢(奥州市)・岩谷堂(奥州市江刺区)などの城下町に発展したものが多い。中でも盛岡には築城以降、近江(滋賀県)の商人が多く来住し、城正面の京町を中心とした八日町や三戸町(現在の本町通周辺)、城東側の銅屋町(のちに紙町)から呉服町界隈(現在の紺屋町から肴町にかけて)に商店街が形成された。商家はその財産を保持し、災害から守るために店舗を土蔵づくり、屋根には防火用天水桶を設置し、仕切りうだつ・袖うだつをあげることを心がけた。

県内の代表的な商家

茣蓙九(ござく・森九商店)

【所在地】 盛岡市紺屋町

 藩政時代、盛岡藩の老舗豪商が軒を連ねた紺屋町にあり、典型的な盛岡の大型商家で、表通りはガラス戸以外は創建当時の景観を今に伝え、中津川に面する裏側の土塀、土蔵は川岸の石垣と相まって盛岡を代表する景観として親しまれています。江戸時代後期、明治時代中期・末期に建て増しされています。

依田養商店

【所在地】 奥州市

 依田養商店の現店舗は明治末期に建てられた土蔵づくりです。江刺市(現 奥州市江刺区)岩谷堂は古くから問屋商人が軒を並べ、販路は胆沢、東山(東磐井)、気仙など仙台藩内はもちろん、盛岡藩の閉伊、和賀地方や、出羽仙北地方にも及んでいたと考えられます。
依田養商店は初代養三郎が御用八百屋依田屋から別れ、明治17(1884)年に建築資材、石油、肥料、塩など手広く商い、同25(1892)年には味噌醤油醸造業をおこし「ようさや」と呼ばれ、今日の基礎をつくりました。土蔵店舗の重厚なたたずまいが街に見事に溶け込んでいます。