更新日:2019年03月21日
氏名 |
小牧正英(こまきまさひで) |
本名 |
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生没年 |
1911- |
職業 |
バレエ団主宰 |
出身地 |
江刺市(現 奥州市) |
解説 |
日本で初めて『白鳥の湖』を上演したバレエダンサーで、日本において本格的なバレエを始めた草分け的存在。ハルビン音楽バレエ学校入学、戦後、東京バレエ団設立に参加。昭和21(1946)年日本で初めて『白鳥の湖』を帝国劇場で全幕上演。その後、小牧バレエ団を創設、日本バレエ史に一時代を築く。 |
氏名 |
小田島孤舟(おだしまこしゅう) |
本名 |
理平治(りへいじ) |
生没年 |
1884-1955 |
職業 |
歌人・教育者 |
出身地 |
東和町(現 花巻市) |
解説 |
明治・大正・昭和にわたる岩手県歌壇、教育界育成の先覚者。小天地社に出入りし石川啄木と交流があり、岩手新詩社創立、文芸同人誌『曠野』発刊するなど岩手近代文芸復興に寄与。第一回岩手文芸功労賞受賞。浄法寺小学校、県立盛岡高女校長など歴任、また書道界でも活躍した。 |
氏名 |
鈴木貫爾(すずきかんじ) |
本名 |
信一(しんいち) |
生没年 |
1919-1982 |
職業 |
鋳金作家 |
出身地 |
盛岡市 |
解説 |
十三代鈴木盛久の長男として盛岡に生まれ、東京美術学校工芸科鋳金部を卒業。昭和21年に日展初入選、32年には特選を受賞する。昭和39年9月から1年間、文部省在外研究員として西欧の鋳金事情調査を行い、帰国後、西欧の鋳金技法を日本に紹介する。昭和52年に十四代盛久を襲名、昭和55年には宮内庁の委嘱による正倉院御物の復元模型を完成させる。 |
本名 |
鈴木彦次郎(すずきひこじろう) |
氏名 |
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生没年 |
1898-1975 |
職業 |
作家 |
出身地 |
盛岡市 |
解説 |
東大在学中に川端康成らと第六次『新思潮』を継承、『姉妹』などを発表。次いで川端康成・今東光・片岡鉄兵らと『文芸時代』を発刊し新感覚派運動に入った。。戦時中は『大関大の里』などと専ら相撲小説を隠れみのとする。昭和19(1944)年帰盛。『常磐津林中』(劇化・テレビ化される)・『自由の征矢』・絶筆『港説城下町』を発表。その間、県立図書館長・県教育長・県顧問(文化)を歴任した。 |
本名 |
野村七蔵 |
氏名 |
巽聖歌(たつみせいか) |
生没年 |
1905-1973 |
職業 |
歌人・児童文学者 |
出身地 |
紫波町 |
解説 |
児童文学者・歌人。『赤い鳥』に投稿し北原白秋に認められる。昭和6(1931)年童謡集『雪と驢馬』刊行。童謡集『春の神さま』で第二回児童文化賞受賞。同人誌『乳樹』を与田準一とともに創刊、多くの新人を発掘。特に新美南吉を見いだし、南吉の死後、彼の全作品刊行に務める。歌人としては白秋の高弟で『多摩』創刊以来のの同人。沼宮内(岩手町)疎開中は短歌と詩『新樹』を創刊、『新児童文化』を復刊。県児童文化協会事務局長を務め『こどもしんぶん』を編集。上京後『白象』編集など民間児童教育に情熱を注いだ。 |
本名 |
堀江尚志(ほりえなおし) |
氏名 |
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生没年 |
1897-1935 |
職業 |
彫刻家 |
出身地 |
盛岡市 |
解説 |
端正な作風で知られる彫刻家。東京美術学校彫刻科塑造部卒。在学中に帝展入選、特選を飾り、29歳のとき「少女座像」で帝展推薦となった。病弱のため寡作で、38歳で死去。しかし1点1点の燃焼度は高く充実し、作品は感受性が豊かで、簡潔で高雅な気品に満ちている。 |
本名 |
岡山不衣(おかやまふい) |
氏名 |
儀七 |
生没年 |
1885-1943 |
職業 |
俳人 |
出身地 |
花巻市 |
解説 |
岩手が生んだ第一級の俳人で死後『岡山不衣句集』が刊行された。岩手毎日新聞の名編集者として知られ、賢治の作品を世に送り出した。啄木とは親友。 |
本名 |
小圃千浦(おばたちうら) |
氏名 |
蔵六 |
生没年 |
1885-1975 |
職業 |
画家 |
出身地 |
岡山県後月郡井原町(現 岡山県井原市) |
解説 |
14歳で上京、土佐派頓田丹陵の弟子となり、3年後、17歳で日本美術院会員となる。明治36(1903)年18歳の時、渡米。「ウエスタン山水」といわれる千浦独特のスタイルを確立。戦後はカルフォルニア大学バークレー校で退官するまで教鞭をとり名誉教授となる。日本では知名度の低い画家だったが、ノンフィクション作家の下鴨哲郎氏の調査で脚光を浴びる。「アメリカに生きた日系画家たち ?希望と苦悩の半世紀」と題した美術展が平成7(1995)年から全国で開かれ好評を得た。 |
本名 |
佐々木精治郎(ささきせいじろう) |
氏名 |
1885-1971 |
生没年 |
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職業 |
画家 |
出身地 |
水沢市(現 奥州市) |
解説 |
明治38(1905)年渡米、サンフランシスコ・ホプキン美術学校などで美術を学ぶ。昭和2(1927)年渡欧、パリを本拠に、モデルを使っての裸婦画の研究を重ね、サロン・ドートンヌなど 海外の公募展にも入選。帰国後東京日本橋三越等で個展を開催、好評を得、画家としての名声を国内に定着させている。岩手美術連盟結成等にも尽力した。 |
本名 |
菅原竹侶(すがわらちくろ) |
氏名 |
1824-1893 |
生没年 |
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職業 |
画家 |
出身地 |
水沢市(現 奥州市) |
解説 |
武家出身の南宗派画人で、幕末から明治期にかけ地方絵事に花を咲かせる基礎を築きあげた代表的な画人。竹侶が主眼とした点は、古来から伝承された南宗画法の単なる絵空事のみの世界を描くことに止まらず、自ら探勝実写した日本独自の自然叢を画面に浮き出させ、鑑賞する人をもその境地に引き込もうとする独創的な絵を求めた。 |