更新日:2019年03月21日
氏名 |
島善鄰(しまよしちか) |
本名 |
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生没年 |
1889-1964 |
職業 |
農学者・北海道大学学長 |
出身地 |
花巻市 |
解説 |
青森県農試から北大教授に転じ、農学博士。岩手県リンゴ増殖計画担当・農業部長・北海道農試場長・昭和25-29(1950-54)年北大学長・北海道公安委員長・弘前大教授。大正12(1923)年ゴールデンデリシャスを導入、純日本産の植栽を刺激。著書に『リンゴ栽培の実際』などがある |
氏名 |
小野寺直助(おのでらなおすけ) |
本名 |
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生没年 |
1883-1968 |
職業 |
医学者 |
出身地 |
前沢町(現 奥州市) |
解説 |
胃運動曲線照射法、小野寺式圧診法の創案者で消化器病の世界的権威。九州大学付属病院長、旧満州の新京医大教授、久留米医大学長、久留米大学学長など歴任、消化器病の臨床研究と独自の治療法を導入し、その発展に貢献。 |
氏名 |
菊池武夫(きくちたけお) |
本名 |
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生没年 |
1854-1912 |
職業 |
法律学者 |
出身地 |
盛岡市 |
解説 |
司法書記官、民事局長を経て弁護士になる。法教育普及に情熱を注ぎ、明治18(1885)年英吉利法律学校(現中央大学)を創設し学長。また東京法学院(のち和仏法律学校と合併し法政大学と改称)も開設した。 |
氏名 |
太田孝太郎(おおたこうたろう) |
本名 |
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生没年 |
1881-1967 |
職業 |
史学者 |
出身地 |
盛岡市 |
解説 |
日本、本国の中国にも数少ない中国金石学の大家で、蒐集した千点以上の中国古代の印は世界的珍品で現在岩手県立博物館所蔵となっている。また『南部叢書』『盛岡市史』の刊行など郷土史の研究にも取り組んだ。著書に『漢魏六朝官印考』『夢庵蔵印』など多数。 |
氏名 |
大槻磐溪(おおつきばんけい) |
本名 |
清崇(きよたか) |
生没年 |
1801-1878 |
職業 |
儒者・蘭学者 |
出身地 |
一関市 |
解説 |
蘭学者玄沢の二男で幕末の仙台藩の儒者、開国論の先覚者。昌平校で儒学を学び、後に西洋兵学を学ぶ。黒船来航に際し、親露論に立つ開国論を主張。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟結成のために働く。著書に『孟子約解』『寧静閣詩文集』『三体詩絶句解』『古経文規』など多数。 |
氏名 |
森嘉兵衛(もりかへえ) |
本名 |
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生没年 |
1903-1981 |
職業 |
歴史学者 |
出身地 |
盛岡市 |
解説 |
社会経済学者・岩手大学教授。盛岡中学を経て法政大学経済学部に学び小野武夫に師事して日本経済史を専攻。この間、学生時代にまとめた「旧南部藩における百姓一揆の研究」は学界がたかく評価。その後、数多くの論文を発表したが、その真髄は、調査分析の手法の独自性と共に、東北および岩手を歴史の表舞台にひきだしたことにある。著書に『岩手近代百年史』『岩手を作る人々』などがある。 |
氏名 |
新渡戸仙岳(にとべせんがく) |
本名 |
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生没年 |
1858-1949 |
職業 |
郷土史家 |
出身地 |
盛岡市 |
解説 |
教育者・郷土史家・書家。明治2(1869)年まで藩学作人館で皇典柔道を修め、のちに英学専修。明治17年から40年(1884-1907)まで高等小・盛岡高女校長を務めた。のち岩手日報主筆。石川啄木の『百回通信』を日報に執筆させた。県史編纂委員長。盲暦・鋳銭・刑罰史・消防など多くの研究がある。『南部叢書』・『郷土読本』・『岩手県誌』・『南部史要』の出版を指導した。昭和24(1949)年所蔵の資料一切を県立図書館に寄贈した。 |
氏名 |
阿部美樹志(あべみきし) |
本名 |
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生没年 |
1883-1965 |
職業 |
コンクリート工学者 |
出身地 |
一関市 |
解説 |
日本最初の鉄筋コンクリート高架鉄道の設計者。“コンクリート博士”と呼ばれ高架線の他、阪急デパート、東宝劇場や日比谷演劇など多くの鉄筋コンクリートの設計を手がけた。 |
氏名 |
菊池勇夫(きくちいさお) |
本名 |
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生没年 |
1898-1975 |
職業 |
法律学者 |
出身地 |
遠野市 |
解説 |
社会法学の先覚者。九州大学法学部教授・法文学部長・総長を歴任、その間内閣臨時法制調査会委員に選ばれ本格的な労働法の草案に関係し、ユネスコ国内委員も務める。著書に『労働法』『社会法の根本問題』など多数。 |
氏名 |
斎藤斐章(さいとうひしょう) |
本名 |
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生没年 |
1867-1944 |
職業 |
歴史学者・歴史教育者 |
出身地 |
水沢市(現 奥州市) |
解説 |
明治26(1893)年に27歳で佐倉河尋常高等小学校初代校長になるが、向学の志篤く、明治28(1895)年に同校を辞し、東京の高等師範学校に入学。東京府師範学校などの教諭を務め、わが国初の理論的歴史教育法の著書ともいうべき『歴史教育法』を出版。その後、欧米に留学、主としてベルリン大学に在籍、その時出版した独文「日本史」はヨーロッパに日本を紹介した初の著書として高く評価された。大正13(1924)年には『中等世界史要』を出版し、世界史教育の先駆者となった。 |
氏名 |
柴内魁三(しばないかいぞう) |
本名 |
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生没年 |
1879-1966 |
職業 |
盲唖教育者 |
出身地 |
盛岡市 |
解説 |
盲唖教育者。明治38(1905)年日露戦争に従軍、奉天会戦で被弾して失明し大尉として退役。盛岡市に私立盲唖学校を設立、大正15(1926)年県立に昇格、校長となり昭和23(1948)年まで勤務。昭和3(1928)年盛岡水道利用組合を創設し、これが盛岡市に買収され、その組合員をもとにして、昭和8(1933)年購販利用組合盛岡病院が設立され、初代組合長。昭和37(1962)年(財)柴内愛育会をつくるなど社会に貢献した。 |
氏名 |
武下節山(たけしたせつざん) |
本名 |
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生没年 |
1822-1889 |
職業 |
藩学立生館教授 |
出身地 |
水沢市(現 奥州市) |
解説 |
藩学立生館教授。孝経など経義を講説するにあたっては、師説を確信して遺訓を守り、専ら朱子の説によって後進の啓発に努めたという。明治6(1873)年に水沢小学校が開設された際に教師を拝命したが、しばらくして病に罹り、職を辞して静養し、もっぱら塾生に教える身となった。門下生には後藤新平、山崎為徳、太宰良造、片桐清治、梅森剛平、佐藤耕雲、朴沢和三郎、阿部靖之助、付岡兵助、須田温夫、高野長運、内田紹衛、千葉倭人などがあげられる。 |
氏名 |
太宰石田(たざいせきでん) |
本名 |
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生没年 |
1847-1913 |
職業 |
教育者 |
出身地 |
水沢市(現 奥州市) |
解説 |
水沢小学校六等訓導、気仙郡の今泉尋常小学校校長兼訓導、水沢尋常高等小学校長を歴任。石田の名は、漢学詩文に秀でたることであり、頼 山陽の次子又次郎(支峯)との交友の姿にも窺(うかが)い知ることが出来る。山紫水明、京に遊び、支峯を訪ねては、詩文を談じ、文筆による交友を深めるなど漢文をもって、『黄梁紀程』と云う紀行文も著している。 |
氏名 |
吉田学半(よしだがくはん) |
本名 |
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生没年 |
1824-1884 |
職業 |
教育者 |
出身地 |
水沢市(現 奥州市) |
解説 |
学半は、幼時堀籠膽水に学び、和歌を能くし、壮年期には、笈(おい)を背負って江戸に遊ぶ。諸国を歴遊、あるときは高野山に登って学寮を担当した。水沢に帰るや、城主邦命は学半を選んで老職とし、機務に参画させた。明治維新の変革時、学半は、家禄に応じて耕地を割与し、また六原野などの開墾の策も官に申し出たりした。のち学半は、官歴も重ね岩手県に出仕して地誌編纂などにもあたった。学半は経典に通じ、また漢詩をよくし、郷土の人びとが受けた薫陶には計り知れないものがある。 |
氏名 |
留守伊豫子(るすいよこ) |
本名 |
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生没年 |
1804-1885 |
職業 |
教育者 |
出身地 |
仙台市 |
解説 |
女子教育者。維新後の新たな教育をおしすすめるため生涯を捧げた。明治天皇東北巡幸の際、時の右大臣岩倉具視から白羽重(はぶたい)一疋(ぴき)を賜わる。明治15(1882)年には、教育精励を事由に、時の皇后より御歌を賜わる。文学に通じ、和歌、手芸などもよく出来た学識豊かな才媛であった。 |