更新日:2021年11月12日
氏名 |
鈴木舎定(すずきいえさだ) |
本名 |
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生没年 |
1855-1884 |
職業 |
自由民権運動家 |
出身地 |
盛岡市 |
解説 |
作人館で学び16歳で上京、築地のキリスト教学校で英語とカトリック精神を身につけ福沢諭吉らの宗教誌『東京新報』を編集、聖書解説など執筆。自由民権運動に共鳴して板垣退助・星亨・河野広中らと接触。郷土の思想統一のため帰盛、求我社を足場に、伊東圭介の協同社を併合して強力に同志を糾合。求我社内に学舎を併設し佐藤北江・横川省三ら多数の青少年を育成。一方、岩手を代表して対外的に活躍、板垣首班の自由党を結成、党大会には星亨らと並び常議員席に就き、将来日本の政治を担う大器と目されながら、志半ばに29歳で没した。 |
氏名 |
板垣征四郎(いたがきせいしろう) |
本名 |
1885-1948 |
生没年 |
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職業 |
陸軍大将・陸相 |
出身地 |
岩手町 |
解説 |
満州国軍政部最高顧問、関東軍参謀長、広島第五師団長等を歴任後、岩手県初の陸軍大臣となる。シンガポール第七方面軍司令官として終戦を迎え、極東軍事裁判で東条英機ら6人とともにA級戦犯として絞首刑。 |
氏名 |
及川古志郎(おいかわこしろう) |
本名 |
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生没年 |
1883-1958 |
職業 |
海軍大将 |
出身地 |
東和町(現 花巻市) |
解説 |
呉鎮守府参謀長、第一航空戦隊司令官、第三艦隊司令長官、航空本部長、支�G方面艦隊兼第三艦隊司令長官の要職を経て第二次近衛内閣の海相。のち軍事参議官。 |
氏名 |
小田為綱(おだためつな) |
本名 |
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生没年 |
1839-1901 |
職業 |
経世家・教育者・政治家 |
出身地 |
久慈市 |
解説 |
明治3(1870)年藩議院議員として上京以来、日本の立憲政体形成期の政治家として活躍。北奥羽開拓の具体的構想は当時政府に顧みられなかったが、昭和30年代の北奥羽総合開発計画に匹敵するスケールのものだった。また為綱文書「憲法草稿評林」は優れた私擬憲法として学界の注目を集めた。 |
氏名 |
国分謙吉(こくぶんけんきち) |
本名 |
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生没年 |
1878-1958 |
職業 |
岩手県知事 |
出身地 |
二戸市 |
解説 |
民選初代の知事。篤農家。明治26(1893)年「私立国分農場」を創立し、優良種苗の無料配布などをした。大正7(1918)年に蚕種・種苗の生産販売、農薬・農機具の販売を営業とする「岩手農蚕(株)」を設立し社長となる。昭和22(1947)年最初の知事選挙に「岩手農政社」をバックに立候補し、農村部への不満と、都市部の食糧行政改善への期待感に支持されて農民知事の誕生となった。在任中農業基盤の整備・乳牛の奨励・県有林整備10年計画・水害復旧などに努めた。 |
氏名 |
横川省三(よこかわしょうぞう) |
本名 |
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生没年 |
1865-1904 |
職業 |
軍事探偵 |
出身地 |
盛岡市 |
解説 |
日露戦争の愛国志士。15歳で上京、自由党の加波山事件に連座し1年半の入獄。のち朝日新聞に入社、郡司大尉の千島探検に同行、日清戦争では海軍に従軍。ロシアが満州に触手を伸ばし日露が緊迫状態にあった当時、北京公使館嘱託として清国(現中国)に渡り、情報収集活動に従事していたが、開戦と同時に鉄道輸送路破壊の特別任務班に志願、ラマ僧に扮してチチハル近く潜入したが、ロシア軍に発見され、ハルビン郊外で銃殺された。キリスト信者でもあった。 |
氏名 |
上田農夫(うえだのうふ) |
本名 |
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生没年 |
1848-1895 |
職業 |
馬産家・政治家 |
出身地 |
盛岡市 |
解説 |
セリ駒制度の民主化、馬種改良、獣医学舎の設立など馬産岩手の発展に尽力。鈴木舎定、谷河尚忠ら「求我社」に拠って自由民権運動を起こし、藩閥政治の打倒を叫ぶ。明治12(1879)年第一回県会議員選挙に当選、議長に選ばれ、以降議長7期をつとめ草創期の岩手県議会制度の確立に尽力。 |
氏名 |
東条英教(とうじょうひでのり) |
本名 |
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生没年 |
1855-1913 |
職業 |
陸軍中将・英機の父 |
出身地 |
盛岡市 |
解説 |
陸軍中尉・陸軍戦術家。能楽をもって南部藩に仕えた英俊の子。明治21(1888)年ドイツに留学し戦術・戦史など研究して帰国。日清戦争には大本営参謀として参謀次長川上操六を助けた。明治35(1902)年少将に進む。日露戦争には姫路旅団長として出征したが病を得て内地帰還。回復後、明治39(1906)年歩兵第三十旅団長となり京城に赴任、翌年中将に進み予備役に編入となった。教導団出身の下士官から陸軍大将へ進んだ者は少なく、英教は長州軍閥から疎まれ、英材をうたわれながら中将で現役を去らなければならなかった。 |
氏名 |
栃内曽次郎(とちないそうじろう) |
本名 |
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生没年 |
1866-1932 |
職業 |
海軍大将 |
出身地 |
盛岡市 |
解説 |
海軍大将・貴族院議員。第一艦隊兼連合艦隊司令長官までなった。中将時代海軍次官となり、細密な頭脳と克明な研究心とをもって八八艦隊基本計画を構想した。昭和7(1932)年貴族院議員、同年7月岩手中学校長に就任したが、生徒に告辞中、壇上に倒れる。 |
氏名 |
山屋他人(やまやたにん) |
本名 |
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生没年 |
1866-1940 |
職業 |
海軍大将 |
出身地 |
盛岡市 |
解説 |
海軍大将・海軍戦術家。海軍兵学校・海軍大学校を卒業し連合艦隊司令長官・横須賀鎮守府指令長官を務めた。軍事教育のほか日清・日露・第一次世界大戦の三大戦争に武勲をたてた。海軍切っての戦術家として聞こえ「山屋戦術」と呼ばれた。 |
氏名 |
石川金次郎(いしかわきんじろう) |
本名 |
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生没年 |
1898-1953 |
職業 |
弁護士・政治家 |
出身地 |
玉山村(現 盛岡市) |
解説 |
岩手県の社会主義運動の草分け的存在。終戦後日本社会党結成に参画、衆議院議員を務める。弁護士としても活躍し、勤労大衆の生活向上を図った。 |
氏名 |
小沢佐重喜(おざわさえき) |
本名 |
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生没年 |
1898-1968 |
職業 |
政治家 |
出身地 |
水沢市(現 奥州市) |
解説 |
昭和21(1946)年衆議院議員初当選後、昭和41(1966)年まで10選を果たし保守本流の要に常にあった。運輸、逓信、郵政、建設大臣などを歴任。小沢一郎の父。 |
氏名 |
椎名悦三郎(しいなえつさぶろう) |
本名 |
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生没年 |
1898-1979 |
職業 |
政治家 |
出身地 |
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解説 |
衆議院議員で自民党副総裁。後藤新平は伯父にあたる。農商務省に入省、満州(中国東北部)に赴任して産業開発に情熱を注ぎ、帰国後、商工省次官や軍需次官を務めた。昭和30(1955)年民主党公認で衆議院選岩手2区から立候補して初当選。衆議院議員8期。この間、内閣官房長官・通産大臣・外務大臣として政治手腕を発揮。昭和45(1970)年自民党派閥交友クラブ会長に就任、椎名派を率いる。昭和47(1972)年の田中政権時代、自民党副総裁。田中首相退陣後の後継自民党総裁に三木武夫を氏名した「椎名裁定」は有名。 |
氏名 |
下飯坂権三郎(しもいざかごんざぶろう) |
本名 |
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生没年 |
1852-1923 |
職業 |
衆議院議員・水沢町長 |
出身地 |
水沢市(現 奥州市) |
解説 |
明治13(1880)年求我社に入社、翌14(1881)年、板垣退助の主催する自由党に入党。明治23(1890)年衆議院議員選挙が実施、下飯坂は第1回から第6回、明治24(1891)年から35(1902)年までの13年間のうち4回当選。下飯坂は議員引退後、水沢町長(明治35・1902年-大正3・1914年まで13年間)となり、町長退任後は4年間水沢農会長を勤めた。(大正3・1914年-大正6・1917年)その間、自由党の後身政友会の育成に尽力し、政友会岩手支部幹事、胆沢政友会を結成するなど政界人として活躍した。 |
氏名 |
杉村陽太郎(すぎむらようたろう) |
本名 |
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生没年 |
1884-1939 |
職業 |
外交官 |
出身地 |
盛岡市 |
解説 |
外交官、濬の長男。第一次世界大戦当時、駐仏大使館参事官。ワシントン軍縮会議の随員。大正15(1926)年新渡戸稲造に続いて国際連盟事務次長となり、のちスイス・イタリア・フランスの各大使を歴任。当時日本は連盟を脱退し破局の道をたどったため、心労のあまり発病し帰国。2年後死去し、外務省葬となる。 |
氏名 |
田子一民(たこいちみん) |
本名 |
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生没年 |
1881-1963 |
職業 |
政治家 |
出身地 |
盛岡市 |
解説 |
政治家・衆議院議長。明治41(1908)年内務省に入り山口県警部を振り出しに大正12(1923)年三重県知事。大正10(1921)年の原敬暗殺を機に胸中深く政界入りを決意し大正13(1924)年衆議院選挙を前に原敬の墓前に電報を打って高知県知事を辞して出馬。しかし、政友会は盛岡を本拠と目し総裁高橋是清自ら立ったため859対810で惜敗した。昭和3(1928)年第一回普選以来30年間9選するまで最高点を取り続け昭和16(1941)年衆議院議長。昭和27(1952)年吉田内閣農相。婦人参政権や社会福祉対策には熱心だった。 |
氏名 |
千田正(ちだただし) |
本名 |
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生没年 |
1899-1983 |
職業 |
岩手県知事 |
出身地 |
金ヶ崎町 |
解説 |
参議院議員・県知事。米国・イギリスの各大学に留学したのち、昭和22(1947)年4月、第一回参議院議員に当選。同院無所属クラブに所属して活躍(3期)、昭和38(1963)年4月、革新系無所属で知事選立候補、保守系候補を破って当選以後連続4期当選、千田県政時代をつくった。30数年の政治生活を一貫して無所属でとおし、政界に新風を送り続けた。千田県政では、大県構想・岩手国体の開催・県の高速交通時代の幕開けを実現した。 |
氏名 |
出渕勝次(でぶちかつじ) |
本名 |
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生没年 |
1878-1947 |
職業 |
外交官 |
出身地 |
盛岡市 |
解説 |
外交官。大正7(1918)年駐米大使館一等書記官。大正11(1922)年山東半島還付委員となり北京に駐在、当時の外交の難問題を処理した。大正13(1924)年外務次官、昭和3(1928)年駐米大使となり、退官後貴族院議員となる。戦後参議院議員地方区で最高点当選、その直後死亡。 |
氏名 |
長沢賢二郎(ながさわけんじろう) |
本名 |
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生没年 |
1885-1965 |
職業 |
陸軍少将・航空技術者 |
出身地 |
盛岡市 |
解説 |
陸軍少将・航空界の先達。明治39(1906)年陸軍士官学校卒。大正14(1925)年航空兵に転科、熊谷陸軍飛行学校長・明野陸軍飛行学校長。陸軍飛行操縦習得徽章が制定されたとき日本で最初に飛行した工兵大尉徳川好敏とともに最初の拝受者になった。大正3(1914)年第一世界大戦には青島攻撃に加わり、長沢はモーリス・ファルマン機を駆って夜間爆撃も行った。 |
氏名 |
野原正勝(のはらまさかつ) |
本名 |
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生没年 |
1906-1983 |
職業 |
政治家 |
出身地 |
埼玉県 |
解説 |
衆議院議員・労働大臣。埼玉県野上町(現長瀞町)の出身。大正15(1926)年旧制宇都宮高等農林学校卒業と同時に林野庁入り。川尻・盛岡などの営林署長を歴任。昭和22(1947)年衆議院選に初当選し、10期。佐藤内閣の労働大臣を務めたが、林野庁の出身らしく、主として林政・農政の面で政治手腕を発揮した。自民党総合農政調査副会長を長い間務め「農政に野原あり」といわれた。 |