盛岡城跡(盛岡市)

 盛岡市のほぼ中心部、北上川、雫石川、中津川の合流点の近くに美しい石垣の曲線で積み重ねられた平城跡があります。これが旧盛岡南部藩主の居城であった盛岡城跡です。
 この盛岡城は南部28代藩主である南部重直の時代、寛永10年(1633)に約30年の年月をかけてようやく完成したと言われています。別名を不来方(こずかた)城とも呼ばれています。戊辰戦争でいわゆる賊軍となった南部藩は石垣の上の建造物等は一切取り壊されてしまいましたが、現在は美しい石垣や池が残り、史跡ながら四季を通じて「岩手公園」として市民に親しまれています。
 石川啄木、宮沢賢治もこの公園を愛し、さまざまな記念碑や文学碑も数多く目にすることもできます。

胆沢城跡(奥州市)

 胆沢城は延暦21年(802)、坂上田村麻呂によって造営され、以降150年間にわたって陸奥北半の要地としての役割を果たします。発掘調査の結果、政庁をはじめとする広大な施設であることが明らかになりました。
 平成5年度に胆沢城跡見学のガイダンス施設としてオープンした奥州市埋蔵文化財調査センターは胆沢城跡のすぐ近くにあります。出土資料の展示や発掘情報の紹介を行っているほか、クイズコーナー、映像コーナーなどがあり楽しみながら歴史を学ぶことができます。

天台寺(二戸市)

 毎日多くの人々が参詣に訪れる八葉山天台寺は、神亀五年(728)に、聖武天皇の勅願所として開かれ、以来、八葉山の通称「桂泉観音」あるいは「御山(おやま)の観音」と呼ばれ、人々の信仰をあつめています。
 昭和62年、瀬戸内寂聴師を新住職に迎えました。境内の林のあちこちには寂聴さんが彫ったという、たくさんのお地蔵さんが並んでいます。仁王門には、二体の阿吽(あうん)の仁王像。国の重要文化財に指定されている聖観音立像や十一面観音立像を始め、天台寺観音堂(本堂)も国指定の重要文化財となっていて、天台寺ゆかりの貴重な仏像や品々も展示されています。

金色堂(平泉町)

 奥州藤原氏の初代清衡公が16年の歳月をかけて建立し、天治元年(1124)に完成した宝形造りの阿弥陀堂。須弥壇や柱には金銀珠玉を散りばめ、すべて金箔を押した内外は極楽浄土を現しています。
 平安末期の美術、工芸の粋をあつめたものと言われ、藤原氏四代の遺体(ミイラ)が納められています。

毛越寺(平泉町)

  毛越寺は嘉祥3年(850)慈覚大師(じかくたいし) によって開かれました。平安時代後期、藤原氏二代基衡公と三代秀衡公が壮大な伽藍(きゃら)を造営し、その規模は堂塔四十、僧坊五百と中尊寺を凌ぐものでした。
 その後度重なる火災により当時の伽藍は焼失し、現在は一山十八坊が残るのみとなりました。平成元年、藤原秀衡公800年遠忌を記念して平安様式の新本堂が建立されました。
 現在、大泉が池を中心とする「浄土庭園」と平安時代の伽藍遺構がほぼ完全な状態で保存されており、国指定の特別史跡、 特別名勝となっています。かつて南大門から円隆寺まで橋が架けられていた浄土庭園は、塔山を背景として全面に池を造り、池の周囲には島、石組みなどが配されています。

正法寺(奥州市)

 「奥の正法寺」と呼ばれる大梅拈華山円通正法寺(だいばいねんげざんえんつうしょうぼうじ)は、かつて福井の永平寺、神奈川の総持寺と並んで日本曹洞宗三本山の一つでした。
 開基は1348(貞和4)年、無底良韶禅師によるものとされ、明治初年までは200人ほどの修行僧がいました。現在も修行僧たちの厳しいお勤めが続いています。
 蛇紋岩の石段と、入母屋造りの広さ720坪あまりにおよぶ日本一の茅葺き屋根の建築。本堂、庫裏、惣門は国の重要文化財に指定されており、本尊の「如意輪観音坐像」、「開山無底良韶禅師画像」や「僧形坐像(三躰)」など県の指定文化財も数多くあります。
 古くから伝説「正法寺の七不思議」にまつわる慕弥の扇、文福茶釜などの品々を見ることができるほか、事前の申し込みで座禅修行の体験ができます。門前の休憩処「月江庵」に予約して僧たちと同じ精進料理を味わってみてはいかがでしょう。

福泉寺(遠野市)

 松崎町にある福泉寺は大正元年(1912年)に初代住職佐々木宥尊師によって開山されました。春は桜、ツツジ、秋は素晴らし紅葉が楽しめる寺域内には、新西国三十三番観音霊場、新四国八十八ケ所、木像福徳大観音像、多宝塔などがあります。
 特に、全身金箔塗りの福徳観音像は、高さ17m、重さ25t、顔の長さが2.4m、手の平が1mもあり、二代目住職摺石宥然師が戦没者の慰霊と世界平和を祈願して建立しました。木彫観音としては日本最大で、断食を繰り返し身を清めながら、樹齢千二百年のマツの大木を独力で十二年の歳月をかけ彫り上げたといわれています。

志和稲荷神社(紫波町)

 奥羽の山麓に抱かれ志和稲荷神社があります。天喜5年(1057)源頼義、義家が安倍氏討伐のため陣ケ岡に布陣したときに建てたものとされて、五穀豊穣、大漁、交通安全の守り神 として人々の厚い信仰をあつめています。
 参道の奉納キツネは、「志和の水げんか」のさい投石によって耳や鼻が欠けたと伝えられています。