この街道の存在を後世に伝えるために

 道の起源は今から千百年以上も前にさかのぼる。奥州市水沢区東上野の住宅街の一角、奥州街道との分岐点を始点に、国道397号とつかず離れず西方へ。さらに、石淵ダムにほど近い奥州市胆沢区若柳下嵐江(いさわくわかやなぎおろせ)を経て奥羽山脈を越え、秋田県の仙北地方へと続くのだが、現在では道そのものがところどころしか存在しない。いわば幻の街道なのである。
 そんな仙北街道の存在に注目したのが、平成2年胆沢区愛宕(いさわくあたご)公民館が開講した成人大学だった。ここで取り上げたのがきっかけで、この街道の踏査(とうさ=実地に行って調査すること)や、語る会などが行われるようになる。
 きちんとした記録もなければ、言い伝えもそう多くない。大正14年、愛宕の青年会14、5人がその道をたどったという記録が最後というから、約70年ぶりの復活だった。

 翌年、この活動に賛同した秋田県東成瀬村(ひがしなるせむら)側からの踏査隊がやってきた。その後は1年交代で山を越え、ついに「仙北街道を考える会」の発足にこぎつけた。

わずかな手がかりをもとに道なき道を進む

 エミシ征討、前九年の役・後三年の役など、戦の道としての役割を務め、一方では、秋田出身の住職が水沢の正法寺3代目になるために通ったり、キリシタン領主と呼ばれた後藤寿庵が逃亡したのもこの道だった。当然、商いの道でもあり、天保の飢饉の際には、秋田から米3,000俵が牛や人によって運ばれたという。
 しかし、往時には2.8メートルだったという道幅も、今では30センチほど。道なき道に等しい。街道は奥州市胆沢区下嵐江から東成瀬村の手倉まで6里、約24キロメートルといわれるが、現在わかっているのは7割ほどです。雪崩や大雨で道が崩れ、まわり道や近道をしたのだろう。何本も道があって、どれが本来の道かわからない箇所もある。

道の整備と共に人の交流も次世代へ

 近年は「うるしの道交流事業」を通し、秋田県湯沢市(ゆざわし)と交流している奥州市衣川区(ころもがわく)からも別隊が参加するという。一本の古道を通して四町村が結び付き、また新たな交流が育まれていく。
 今後も調査を進めながら、人が迷わず歩ける程度に道を整備していくこと、地名が判明した所には、始点から何キロメートルと刻んだ道標を建てることが目標。さらに胆沢ダム完成で一部が水没する前に、国土地理院の地図にこの道をきちんと落とし込むのも目標という

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秋田県(千古の歴史を刻む仙北街道)