延宝2年(1674)以降には、阿部小平治という山師(鉱山開発の専門家)の働きによって開発が軌道に乗り、尾去沢は有力な銅山に成長します。 これ以降の尾去沢は山師や商人による請山として、または藩直営の御手山として、明治維新まで200年以上にわたる盛衰の歴史を刻むことになります。
 正徳5年(1715)幕府は盛岡藩に対し、鹿角の銅山(白根・尾去沢・立石の3山)から長崎御用銅65万斤(390トン)の供出を命じます。長崎御用銅とは中国やオランダとの貿易決済に使われた銅のことで、全国の銅山から集められた銅を大坂吹屋(製錬業者)が集荷しました。年間65万斤は尾去沢鉱山にとっては厳しい割り当てであったうえに、買い上げ価格も生産実費をはるかに下回る安値であったため、鉱山経営は著しく藩財政を圧迫し、そこで働く人々も過酷な条件を強いられる有り様でした。盛岡藩では明和2年(1765)経営の安定しない尾去沢銅山を藩直営にしています。
 このような悪条件の下でも産出量は徐々に向上し、幕末には伊予(愛媛県)の別子・秋田の阿仁と並んで全国の産銅を三分するまでになりました。  御用銅時代の産出量は、約6,100万斤(36,600トン)で年平均57万斤(342トン)ほどと推定されています。