栗木鉄山の精錬場跡は、住田町の大股川と篠倉沢の合流点の落合付近から、姥石峠(国道397号・種山高原)の稜線に至る子飼沢地内の栗木沢にあり、雑木林の中に現在でも高炉や石垣、水路などの設備遺構が確認されています。遺構は国有林の中、県が借り受けて造林事業を行っている山林の中にあり、これまであまり人目に触れなかったことから現状が維持されてきました。
 栗木鉄山の沿革は、明治10年代ごろから確認されています。高炉が子飼沢から栗木沢に移され、当初は「江刺鉄山」と呼ばれた栗木鉄山は、明治40年(1907)に日本製鉄(株)に買収され、翌年には“鉄鋼界の元勲”と呼ばれた工科大学教授・野呂景義の設計で25,000円の資金で高炉1基(第2高炉)を増設しています。さらに明治43年(1910)には栗木鉄山(株)が設立されています。第一次世界大戦の好景気で栗木鉄山は空前の盛況となりますが、大正7年(1918)の大戦終了後に鉄価は大暴落、操業を停止します。
 当時、盛(大船渡市)から水沢に至る盛街道沿いに2つの溶鉱炉をはじめ鋳物工場、職員・工員住宅、郵便局、学校などが設置され、さながら「製鉄村」が形成されていました。第1高炉は大島高任式の構造で高さは約9メートルあったと言われ、鉱山敷地内の鋳物工場では鍋や釜、鉄瓶、鉄砲、車輌などを製造し、海軍省などに納入されていたと伝えられています。
 平成3年(1991)、国道の改良工事に伴い新ルートがこれらの遺構を通ることから再確認、注目されました。