官営釜石製鉄所は、陸海軍への食糧や鉄材の納入を取り仕切っていた東京の御用商人・田中長兵衛に払い下げられ、第2の創業を迎えます。明治17年(1884)に、木炭を燃料とする小規模高炉2基(うち1基は大島高任が設計したものと同型)を新たに建設した田中と、初代所長となる横山久太郎は、失敗を繰り返しながらついに明治19年(1886)10月16日、49回目にして初めて出銑(しゅっせん)に成功し、製鉄所再興の道が開かれました。この日は、釜石製鉄所の創業記念日となっています。
 翌年には、国から正式に全ての施設の払い下げを受け、釜石鉱山田中製鉄所を設立、陸軍大阪砲兵工廠の砲弾用銑鉄や水道用鉄管材料の受注で社業を拡大し、明治26年(1893)には官営時代の大型高炉を改修して再稼働、翌明治27年(1894)には国内初のコークスによる製鉄に成功しています。大型高炉の稼働によって、前年まで年間8,000トンだった銑鉄生産量は13,000トンに増加し、明治28年(1895)、はじめて高炉銑がたたら銑の生産量を上回りました。
 明治33年(1900)の田中製鉄所のシェアは、全国の72%を占めるまでに成長します。