太平洋戦争末期に釜石は、本土初の艦砲射撃を受けました。製鉄所と鉱山を持ち、資源を自給できる貴重な軍需工場地帯であったためです。2回に及ぶ連合軍の艦砲射撃によって街は焼野原と化し、市役所、駅、警察署、郵便局など諸施設が大きな被害を受け、全焼2,930戸、全壊180戸、半焼半壊326戸に及びました。製鉄所も壊滅的な打撃を受け、高炉11基は破壊され、製銑、製鋼工場は9割以上を失いました。死亡者も市街地で534人、製鉄所で157人に達しています。
 昭和23年(1948)製鉄所は第10高炉が復旧して操業を再開、朝鮮戦争特需で鉄鋼生産が爆発的な伸びたことで成長の基盤を確立し、昭和25年(1950)には、過度経済力集中排除法の指定で日本製鐵は八幡製鐵・富士製鐵の2社に分割され、釜石は富士製鐵釜石製鉄所として再編されます。