天下統一最後の戦い「九戸政実の乱」
九戸城址
九戸城址
 天正18(1590)年、豊臣秀吉は最後まで服属を拒否していた小田原の北条氏を滅亡させ、奥羽仕置(おううしおき=奥羽の諸大名の成敗)のため小田原を出発し、宇都宮まで進みます。ここで、小田原攻めに参陣しなかった葛西晴信(かさいはるのぶ)・大崎義隆(おおさきよしたか)・和賀義忠(わがよしただ)・稗貫広忠(ひえぬきひろただ)らの改易(かいえき=領地没収)を決定、葛西・大崎領には木村吉清(よしきよ)、鳥谷ヶ崎(とやがさき・花巻市)には浅野長吉(長政)が配置されました。
 一方、前田利家らを通じて中央の政治情勢を注視していた南部信直(なんぶのぶなお)は、一族の八戸政栄(はちのへまさよし)に留守を託し、小田原の秀吉のもとに参陣します。こうして信直は、秀吉から糠部(ぬかのぶ)・鹿角・閉伊(へい)・岩手・志和(しわ)・稗貫(ひえぬき)・和賀(わが)の「南部内七郡」の本領安堵を受け、豊臣大名として公認を受けます。
 天正19(1591)年正月、一族の九戸政実(くのへまさざね)が九戸城(宮野城・二戸市)で挙兵、信直に反旗をひるがえします。自力で鎮定できない信直は秀吉に注進、秀吉の甥・豊臣秀次(ひでつぐ)を総大将とする5万とも10万ともいわれる再仕置軍がやってきます。迎え撃つ九戸軍はわずか5,000人あまり。難攻不落といわれた九戸城を舞台に果敢に戦いましたが、9月に政実は降伏します。ここに豊臣秀吉の天下統一が完成しました。
(九戸政実の乱に参戦した武将たち)
豊臣秀次(とよとみひでつぐ・1568〜1595)
 豊臣秀吉の甥。九戸政実の乱後に秀吉の養子となり、秀吉のあとを継いで関白にまで登りつめたが、文禄2(1593)に秀吉に実子・秀頼が誕生すると不仲になり、秀吉に官位を剥奪され、高野山で自害。子供と妻妾30余人も京都三条河原で殺された。
蒲生氏郷(がもううじさと・1556〜1595)
 はじめ織田信長、のちに豊臣秀吉に仕えたキリシタン大名。奥羽仕置後、会津42万石(のちに91万石に加増)に封ぜられる。文武兼備の器量人として知られ、信長の娘をめとり、秀吉に羽柴姓を許されるなど将来を嘱望されたが、文禄4(1595)年病没。
浅野長政(あさのながまさ・1547〜1611)
 代々織田家に仕え、また早くから秀吉に従って各地を転戦。天正13(1585)年、五奉行の首座に任じられ、太閤検地の奉行としても活躍するなど、秀吉の信頼が厚かった。奥羽仕置時は若狭国小浜城主。関が原の合戦では家督を譲った子・幸長(よしなが)とともに徳川方についた。
石田三成(いしだみつなり・1560〜1600)
 幼少時から秀吉に仕え、その聡明俊敏を秀吉に愛された。秀吉の全国統一事業の中心にあって豊臣政権の中央官僚的役割を果たす。五奉行の一人として秀吉の死後も政権維持に奔走するが、徳川家康と対立し関が原の合戦で破れ、斬首された
井伊直政(いいなおまさ・1561〜1602)
 徳川家康に取り立てられ、旧武田家臣を抱えて甲州経営に尽力、徳川四天王の一人として活躍した。家康の関東移封後は上野国箕輪城主となり12万石を領し、関が原の合戦後は石田三成の遺領・近江佐和山18万石が与えられた。彦根藩井伊家の祖。
 
 ■いわての文化情報大事典(九戸城跡)
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 ■いわての文化情報大事典(いわての鉱山史:盛岡藩の金山開発
 

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