産業の成立
(金融)
旧第九十銀行
旧第九十銀行
 岩手では明治7(1874)年の小野組破産以来、為替方を失っていました。このため政府は明治11(1878)年に第一国立銀行に盛岡支店を開かせ、国庫金と公金を取り扱わせます。同年、一関では旧一関藩士の出資によって第八十八銀行が創設、盛岡でも旧盛岡藩士の出資によって第九十銀行が創設されました。しかしいずれも経営基盤が磐石とはいえず、明治27(1894)年、第一銀行盛岡支店閉鎖に伴う公金取扱い業務譲渡に際しては、第九十銀行は支族重役と商人重役の対立によって開店休業状態、第八十八銀行は堅実経営のものの規模が小さすぎるなどの理由によって、渋沢栄一(しぶさわえいいち)が急遽、仙台の第七十七銀行に盛岡支店を開かせ、公金取扱い機関としました。明治29(1896)年、盛岡の財界人の尽力で盛岡銀行が開業、明治32(1899)年には公金取扱いも開始しました。
 
     ■いわての文化情報大事典(岩手銀行<旧盛岡銀行>旧本店本館)
 
(鉄道)
 県内最初の鉄道は明治13(1880)年、官営釜石製鉄所の鉄鉱石と木炭輸送用として開業しました。これは全国でも3番目という早さです。当初は貨物運搬専用でしたが、明治15(1882)からは旅客運送も開始しています。しかし翌明治16(1883)年、官営釜石製鉄所が廃止されると鉄道も終わりを告げました。
 明治23(1890)年11月、現在の東北本線が盛岡まで開通、翌明治24(1891)年9月には青森まで全通しました。県内の駅は花泉(はないずみ・一関市)・一関・前沢(まえさわ・奥州市)・水沢(奥州市)・黒沢尻(くろさわじり・北上市)・花巻・日詰(ひづめ・紫波町)・盛岡・好摩(こうま・盛岡市)・沼宮内(ぬまくない・岩手町)・中山(なかやま・一戸町)・小鳥谷(こずや・一戸町)で、福岡(二戸市)は明治24(1891)年末、一戸(いちのへ)は明治26(1893)年に開業しています。当時、盛岡−仙台間は7時間弱、盛岡−上野間は17時間55分でした。
 
 
(馬産)
賑わう馬市
賑わう馬市
 藩政時代以前から馬産地として知られた岩手の伝統は、明治以降も着実に受け継がれました。県による獣医養成期間もいち早く、明治12(1879)年、藪川村(やぶかわ・盛岡市)の県営外山牧場に獣医学舎が設けられています。これは東京駒場農学校(現在の東京大学農学部)に次ぐ早さです。明治29(1896)年には陸軍省軍馬補充部の中山派出所が小鳥谷(こずや・一戸町)に、明治31(1898)年には六原支部(金ヶ崎町)が創設され、翌明治32(1899)年には種山ヶ原(奥州市)と門馬村田代(かどまむらたしろ・宮古市)に出張所が設けられます。また明治29(1896)年に農商務省の岩手種馬所が滝沢村に、明治43(1910)年には陸軍騎兵第三旅団が盛岡に設けられるなど、岩手の馬産はますます盛んとなっていきます。産馬数は明治43(1910)年までは年間一万頭台ですが、明治末期から大正中期にかけては八万頭にまで増え、大正後期には九万頭台に達し、ついに大正13(1924)年には念願の馬生産数日本一になりました。
(鉱工業)
全盛期の松尾鉱山
全盛期の松尾鉱山
 明治16(1883)年、官営釜石製鉄所が廃止され、御用達商人・田中長兵衛に払い下げられます。操業は失敗の連続で、明治19(1886)年、実に49回目の操業ではじめて出銑に成功、このことによって、製鉄所再興の道が開かれました。釜石製鉄所の発展を支えたのは、軍部の旺盛な鉄需要と技術者の努力でした。明治23(1890)年には名声を博していたイタリア・グレゴリー銑の品質を抜き、明治27(1894)年には燃料を木炭から石炭に切り替え、石炭を焼成したコークスを用いて、国内では初めてコークス銑を生産します。明治30(1897)年には従業員1,533人という、東北第一の近代的重工業に成長しました。
 これと前後して、明治21(1888)年、松尾村(現 八幡平市)の硫黄鉱山の試掘願いが出されて、松尾鉱山が生まれます。明治末期には露天掘りなどが行われ、大正3(1914)年、松尾鉱山株式会社が設立されると本格的な鉱山として歩み始めます。松尾鉱山から産出する硫黄や硫化鉱はパルプ・農薬・駆虫剤・染料・化学肥料・爆薬などの化学工業に原料として利用され、大正14(1925)年ごろには「日本一の硫黄山」と呼ばれるようになります。同時にこのころから鉱毒水問題が表面化し、閉山後の現在も、鉱毒処理の中和施設が稼動を続けています。

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