氏名 後藤清郎(ごとうせいろう)
本名
生没年 1889-1945
職業 新聞人
出身地 石鳥谷町(現 花巻市)
解説 新岩手日報社長。報知新聞・東京日日新聞を経て岩手日報社に主筆として迎えられ、反官僚・反軍閥の進歩的な論陣を張る。昭和13(1938)年、銀行系財界人の新聞干渉に抵抗して同志とともに『新岩手日報』(現在の岩手日報)を創刊。
氏名 小田島定吉(おだしまさだきち)
本名
生没年 1890-1972
職業 ジャーナリスト
出身地 和賀町(現 北上市)
解説 日本経済新聞社社長、共同通信社理事会長、日本新聞協会会長などを歴任、言論報道界の先駆として社会に尽力。また日本短波放送・日本教育テレビを創立、ラジオ、テレビ事業を通じて民間の教育発展に貢献。
氏名 金田一国士(きんだいちくにお)
本名
生没年 1883-1940
職業 実業家
出身地 盛岡市
解説 盛岡銀行頭取、盛岡電灯・岩手軽便鉄道・盛岡信託・盛岡貯蓄・花巻温泉・花巻電鉄社長の他運輸交通・電気ガスなど県内の関係事業数35に及ぶ。盛岡会議所会頭として盛岡運輸・保線事務所(旧盛岡鉄道管理局)の誘致を実現し、昭和2(1927)年山田・釜石・橋場の未設線の建設促進など開発に寄与。
氏名 小野慶蔵(おのけいぞう)
本名
生没年 1854-1920
職業 銀行家
出身地 盛岡市
解説 明治23(1890)年第九十国立銀行取締役に就任以来、同行株式を集め、筆頭株主でありながら明治40(1907)年に旧岩手銀行を設立、明治44(1911)年には預貸金とも第九十銀行をしのぐまで成長させた。当時の盛岡市経済界の風雲児。原敬の政治活動を支援したことでも有名。
氏名 小保内定身(おぼないさだみ)
本名
生没年 1834-1883
職業 国事・勧業家
出身地 二戸市
解説 明治維新に際し会輔社を組織し盛岡藩内少数の勤皇派として奔走、藩が朝敵とみなされて苦難に陥った時、その収拾に当たった執政東次郎中務を助けて活躍。引退後地方産業の開発振興・後進の育成に努めた。
氏名 郷古潔(ごうこきよし)
本名 1882-1961
生没年
職業 実業家
出身地 水沢市(現 奥州市)
解説 三菱合資に入り以来、三菱人として一生を送った。昭和16(1941)年三菱重工業の社長に就任。請われて東条内閣の内閣顧問になる。時局の進展にともない次第に戦略的指導者に押しあげられ戦後は戦犯に問われ巣鴨プリズンに拘置。昭和21(1946)年に容疑が晴れ出所したが、昭和26(1951)年まで公職から追放。この間在京岩手振興協会の会長となり陰ながら国分県政に協力。追放解除とともに、財界に復帰したが、財界は挙げて歓迎しご意見番に推した。
氏名 佐藤公一(さとうこういち)
本名
生没年 1889-1961
職業 医療組合運動の指導者
出身地 大東町(現 一関市)
解説 農民運動者。戦前戦後を通じて産業組合・農協界に指導的役割を果たし、特に医療産業組合運動で指導力を発揮した。貧しい農民にも医療の光を当てようというのが医療産業組合運動の目指した目標であった。無医村地区解消を目指して昭和11(1936)年県医療産業組合連合会が設立、総務理事・専務理事を務めた。産組病院は戦後県の医療行政の中に組み入れられて県立病院となった。戦後は初代の県農協中央会長として活躍、晩年には県農林漁業団体温泉保養所の設立に尽力した。
氏名 佐藤北江(さとうほっこう)
本名 真一(しんいち)
生没年 1868-1914
職業 新聞記者
出身地 盛岡市
解説 新聞人。少年時代に鈴木舎定・伊東圭介らの「求我社」に入り、17歳で新聞記者になった。20歳で上京。朝日新聞入社。朝日に北江ありの名編集者。石川啄木を入社させ、朝日歌壇の評論を紙上に掲載。彼が死ぬまで北江は手厚い援助を惜しまなかった。
氏名 三田義正(みたよしまさ)
本名
生没年 1861-1935
職業 実業家
出身地 盛岡市
解説 洋式農学者津田仙に学び、農場・植林・経営を修得。盛岡市周辺の美林を造り、菜園一帯の市街地化に尽くす。大正15(1926)年岩手中学校を設立。また三田商店の社長としてセメント・ガラス・火薬・鉄砲を商うなど、実業家としても有名。弟俊次郎の医学教育・岩手医専(現岩手医大)の実現などについては、陰の力となって尽くし、市政にも貢献があった。
氏名 村井茂兵衛(むらいもへえ)
本名
生没年 1821-1873
職業 実業家
出身地 盛岡市
解説 明治維新期の盛岡の豪商で屋号は「鍵屋」。「七十万両献納問題」「尾去沢銅山事件」などで破産に追い込まれた。それらは藩政から県政へ移行する変革期の象徴的な事件であった。
いわての文化情報大事典(いわての鉱山史:近代鉱山への脱皮)
氏名 谷村貞治(やむらていじ)
本名
生没年 1896-1968
職業 実業家
出身地 花巻市
解説 昭和12(1937)年独立して東京・蒲田に新興製作所を設立、日本語をテープに印字する印刷電信を創案、戦後花巻に移転し、全国電信局復旧にその印刷電信を整備する大仕事をゆだねられ飛躍第一歩を歩む。昭和26(1951)年3段シフトページ式和欧文テレプリンターを完成、帳票伝送機を加え、さらに米国ウェスタン社と技術提携して電子計算機に連動する自動さん孔機を開発。昭和31(1956)年漢字テレプリンターを発明、新聞報道の機械化を実現。その間参議院議員2期・自民党県連会長・県政顧問・県経営者協議会長など。著書は『白萩荘随談』。
氏名 吉川鉄之助(よしかわてつのすけ)
本名
生没年 1859-1931
職業 北海道開拓者
出身地 水沢市(現 奥州市)
解説 明治4(1871)年13歳のとき、父太左衛門と共に留守氏家臣団に加わり、北海道に渡り札幌平岸39番地に入植して開拓に従ったが、明治20(1887)年長沼(北海道長沼町)に移り、同地開拓の祖と仰がれるようになり、昭和12(1937)年町役場前に美髯(ぜん)の胸像が建てられる功績をあげた。このようなことは水沢には知られていなかったが、昭和36(1961)年長沼町史編さん委員伊藤兼平によって知らされた。