登り街道は八戸城下から市野沢(いちのさわ)、観音林(かんのんばやし・岩手県軽米町)を経て、福岡(岩手県二戸(にのへ)市)に至る街道です。登り街道という名称は、この街道を八戸藩主が参勤交代で江戸に登る時に使用したために名付けられました。しかし福岡、観音林、市野沢方面からみると、この街道は八戸方面への道であり、もっぱら八戸街道と呼ばれました。寛文4(1664)年、盛岡藩から分離した形で二万石の八戸藩が成立、以降歴代の藩主が参勤交代路としてこの街道を通りました。八戸地域は14世紀の南北朝時代から根城(ねじょう)南部氏の支配領域で、それは寛永4(1627)年の根城南部二十二代直義(なおよし)の遠野(岩手県遠野市)移封まで続きました。移封後八戸地域は盛岡藩の直轄地となり、盛岡藩の「雑書」の承応2(1653)年4月4日の条には、福岡から八戸まで、つまり登り街道にも一里塚と道筋改めのために役人を派遣したと記されています。また、明暦3(1657)年盛岡藩二代藩主重直が領内の大規模な街道整備を実施しています。つまり、登り街道は八戸藩成立以前からかなり整備されていたものと思われます。