延暦21(802)年に造胆沢城使(ぞういさわじょうし)として胆沢(現在の岩手県奥州市)に赴いた坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は、さっそく胆沢城の造営にとりかかります。それと同時に周辺地域の支配体制づくりを開始し、延暦23(804)年には磐井(いわい)・江刺(えさし)・胆沢の「胆沢三郡」が成立したものと考えられます。大同3(808)年には陸奥国鎮守府が国府多賀城から移され、「鎮守府胆沢城」が成立します。
 胆沢城は方(四角形の一辺の長さ)675メートルの築地(土塀の上に屋根を葺いたもの。古くは、土を盛り上げて固めただけのものであった)で画される外郭線と、その内側に方90メートルの大垣で区画された政庁域からなります。外郭外周には幅5メートルの大溝が、内周には幅3メートルの内溝があり、築地の各面に門ややぐらがありました。
 胆沢城を造営した田村麻呂はさらに北進、翌延暦22(803)年に、北上川と雫石川の合流地点付近(現在の盛岡市)に、方840メートルという国府多賀城に匹敵する東北最大級の城柵・志波城(しわじょう)を造営します。弘仁2(811)年には和我(わが)・稗縫(ひえぬい)・斯波(しわ)の「志波三郡」が立郡され、ここに鎮守府の支配領域「律令期の六郡」が確定しました。しかし水害に悩まされ続けた志波城は城柵維持が困難となり、弘仁3(812)年、志波城の南方10キロ、現在の矢巾町に徳丹城(とくたんじょう)が築かれると、その政治的機能を徳丹城に移します。その徳丹城も半世紀を経ずに機能が減退、これ以後、志波三郡以北の統帥権も「鎮守府領六郡」として集約されていきます。
 10世紀、律令国家から王朝国家へと中央の政治体制が変化していく中、鎮守府領六郡でも変化が起きます。斯波郡の領域が南遷し、その北に斯波郡を含んだ岩手郡が成立、一方、磐井郡は国府多賀城領に編入されます。こうして岩手・志和(しわ)・稗抜(ひえぬき)・和賀(わが)・江刺・伊沢(いさわ)の「奥六郡」が成立しました。

律令六郡(9世紀)

律令六郡(9世紀)

奥六郡(10世紀)

奥六郡(10世紀)