前九年の役の功労によって康平6(1063)年、清原武則(きよはらのたけのり)は俘囚(ふしゅう・朝廷の支配下に入ったエミシ)としては初めて、鎮守府将軍に任ぜられました。しかしこの官位授与は、清原一族内部で将軍職に連なる「嫡流意識」が生まれるきっかけとなります。武則−武貞(たけさだ)と続いた清原家は、武則の孫の真衡(さねひら)の代になって同族の反感をかい、永保3(1083)年、内部抗争「後三年の役(ごさんねんのえき)」(後三年合戦)が始まります。この戦いには源頼義(よりよし)の長男である陸奥守義家(よしいえ)が介入し、前九年の役で安倍貞任とともに斬首となった藤原経清(つねきよ)の遺児で、清原家に身を寄せていた藤原清衡(きよひら)も義家に味方しました。真衡の病死や真衡の養子成衡(なりひら)の陸奥退去もあり、最後には清衡は、武貞の子で異父兄弟でもある清原家衡(いえひら)を滅ぼす結果となります。寛治元(1087)年に戦いは終わり、安倍・清原の遺領を継承した清衡は、平泉に居を構え、ここに「奥州藤原時代」が幕を開けることになりました。