嘉応2(1170)年、秀衡(ひでひら)は従五位下に叙せられ鎮守府将軍に任じられました。当時「征夷」の役所としての鎮守府はすでになく、名目上、陸奥守が兼任することになって久しい職ですが、のちに木曾義仲(よしなか)と源頼朝(よりとも)の対立が表面化すると、後白河法皇の「鎮守府将軍秀衡」宛の下文で「陸奥出羽両国の軍兵を率い、頼朝を討つべし」と書かれるなど、軍事的な「奥州の支配者」として認められた職名として使われています。
秀衡のもう一つの顔は「源義経(よしつね)の庇護者」としての側面です。平家とつながりが深く、その強い後押しで養和元(1181)年には地方武士としては初めて国主・陸奥守に任じられた秀衡ですが、平泉にやって来た義経を養育し、また兄・頼朝に追われて平泉に落ち延びた義経をかくまいました。しかし文治3(1187)年、泰衡(やすひら)に家督を譲り、義経を守ることを誓わせてこの世を去ります。