栄華を極めた奥州藤原氏を滅ぼし、全国統治を完成させた源頼朝(よりとも)は文治5(1189)年、葛西清重(かさいきよしげ)に陸奥国御家人を奉行し、平泉郡内検非違使(けびいし・非法・非違を検察し、追捕・訴訟・行刑をつかさどった職。現在の裁判官と警察官とを兼ね、権限は強大であった)所を管領させました。これが、鎌倉幕府が陸奥国に守護の代わるものとして置いた「奥州惣奉行」の始まりで、清重は藤原氏に代わる平泉の主として、奥州の軍事・警察権を一手に引き受ける立場となりました。
 葛西氏は武蔵国豊島郡(東京都豊島区)を本拠とした豊島氏の一族で、清重の父・清元(きよもと)が下総国葛西御厨(みくりや・東京都から千葉県にかけての地域)に移り、葛西氏を名乗るようになります。清重は頼朝挙兵以来の功臣で、のちに鎌倉幕府の重鎮となった人物です。
 当時の葛西氏の所領は、磐井(いわい)・気仙(けせん)・胆沢(いさわ)・江刺(えさし)の四郡に興田(おきた・一関市大東町)と黄海(きのみ・藤沢町)の二保(ほ)、牡鹿郡(宮城県)で、のちに「葛西本所(ほんじょ)五郡二保」と称される広大なものでした。
 他郡の支配者も関東御家人に代わり、和賀(わが)郡は和賀氏、遠野保(とおのほ)は阿曾沼(あそぬま)氏、閉伊(へい)郡は閉伊氏、稗貫(ひえぬき)郡は稗貫氏、志和(しわ)郡は足利(あしかが)氏、岩手郡・久慈郡・糠部(ぬかのぶ)郡は幕府執権の北条氏の所領となりました。
 一般に関東御家人たちの領地は全国各地に散在していました。このため本領から遠く離れた領地には代官を派遣して領国経営にあたらせ、自らは本領と鎌倉を往復する生活を送っていたものと考えられます。例えば糠部(ぬかのぶ)郡の場合、一戸(いちのへ)には工藤氏や浅野氏、南門に横溝氏など、多くの北条氏被官が「地頭代」となって領国経営にあたっていました。これらの地頭代も関東の武士であり、現地に土着するようになったのは鎌倉時代後期のことと考えられます。さらに、これら地頭代の指揮のもと、日常的な領地経営を行っていたのは、奥州藤原時代の旧領主一族だったということも考えられます。