元中8(明徳2・1391)年、室町幕府は奥州を鎌倉府の管轄としました。鎌倉公方の足利満兼(みつかね)は応永6(1399)年に弟の満直(みつただ)を篠川(ささがわ)公方、満貞(みつさだ)を稲村公方として奥州に下向させました。ところが翌応永7(1400)年、幕府は大崎詮持(あきもち)を奥州における出先機関である「探題」に任じます。これが奥州探題大崎氏の始まりです。永享の乱(鎌倉公方足利持氏が将軍職を望んで室町幕府に叛逆を謀った事件。これを諫めた上杉憲実をも除こうとし、将軍義教によって討滅された)によって鎌倉公方が滅び、永享12(1440)年に篠川公方が横死すると、奥州探題が、室町幕府体制の唯一の体現者となり、奥州は大崎氏を頂点とする体制になります。この体制下では、南部・葛西・伊達の三氏が大崎氏に次ぐ地位となり、その下に留守氏、さらに下に和賀(わが)氏・稗貫(ひえぬき)氏という序列が生まれました。
 しかし奥州で大崎氏と対等に渡り合える武士もいました。志和(しわ)郡高水寺城(紫波町)を本拠とする斯波(しば)氏です。斯波氏は、本家の室町幕府管領や越前守護斯波氏とも一族関係を保ちながら勢力を誇り、「奥州の大崎・斯波両所」などと大崎氏と並び称されて、高い地位を認められていました。