藩政時代の岩手県は、盛岡藩・八戸藩・仙台藩・一関藩の四藩の領域でした。

盛岡藩と八戸藩

 盛岡藩は10万石(のちに20万石)の外様中藩(加増後は大藩)で、準国持大名南部氏が統治しました。藩祖信直(のぶなお)以降、16代にわたって在封し、明治3(1870)年、他藩に先駆けて廃藩置県を断行するまで続きます。藩領は北郡(青森県下北・上北両郡)から三戸(さんのへ・青森県三戸郡)・二戸・九戸(くのへ)・鹿角(秋田県鹿角市)・閉伊(へい)・岩手・志和(しわ)・稗貫(ひえぬき)・和賀(わが)の10郡からなり、「三日月の円くなるまで南部領」とうたわれるほど広大でした。豊臣秀吉の奥羽仕置で没落した阿曾沼(あそぬま)氏の旧領・遠野は仙台藩領と接する防衛上の拠点だったため、二代藩主・利直(としなお)は寛永4(1627)年、一族の八戸直義(はちのへなおよし)を八戸根城(ねじょう)から遠野・横田城に転封しました。中世以来の名門・八戸氏はこれによって遠野南部氏となり、1万2,500石の大禄を食んで、陸奥国代(郡奉行と検断を兼務)として名誉を維持することになります。
寛文4(1664)年、三代藩主・重直(しげなお)が嗣子を定めずに病没したため、遺領10万石は、重直の二人の弟・七戸重信(しちのへしげのぶ)の盛岡藩8万石と、中里直房(なかさとなおふさ)の八戸(はちのへ)藩2万石に分割され、八戸藩が誕生します。八戸藩の領地は、三戸郡41カ村・九戸郡38カ村・志和郡4カ村でした。盛岡藩はその後、天和3(1683)年に2万石を加増されて10万石に復活します。さらに十一代藩主・利敬(としたか)の時代の文化5(1808)年には東西蝦夷地の警護により、領域はそのままで20万石に格上げされ、盛岡藩は明治維新を迎えます。また利敬は、五代藩主・行信(ゆきのぶ)の時代に5,000石を分知された七戸家に6,000石を加増し、1万1,000石として大名に列せさせました。これが明治維新直後の七戸藩の起こりとなりました。

仙台藩と一関藩

 仙台藩は62万石の外様大藩で、国持大名伊達氏が統治しました。藩祖政宗以降、15代にわたって在封しました。現在の岩手県の気仙(けせん)・東磐井(ひがしいわい)・西磐井・胆沢(いさわ)・江刺(えさし)地域が仙台藩領に属していました。
一関藩は万治3(1660)年、仙台藩主初代政宗の末子宗勝(むねかつ)が62万石のうち3万石をもって立藩しましたが、その後、寛文11(1671)年の寛文事件(伊達騒動)で一時断絶し、その後、田村宗良(むねよし)の子・建顕(たけあき)が入部して再興されました。領地は磐井郡のうち西磐井11カ村・流(ながれ)13カ村・東山11カ村・栗原(くりはら)郡三迫(さんのはさま)2カ村からなり、そのほとんどが現在の岩手県東磐井郡・西磐井郡の中にあり、藩祖建顕以降、11代にわたって在封しました。建顕はまた、江戸城内で赤穂(あこう)城主・浅野長矩(ながのり)が吉良義央(よしなか)を斬りつけた、『忠臣蔵』で知られる「江戸城松の廊下刃傷事件」で長矩を預かり、江戸藩邸で切腹させたことでも知られています。一関藩主は仙台藩主から見れば「家臣」の扱いで、一門と同じ扱いを受けていましたが、江戸幕府からは直参(じきさん=将軍に直属の者)として扱われた、独立した大名でした。

寛文事件(伊達騒動)とは

万治3(1660)伊達綱宗は幕命により隠居、幼少の世子亀千代丸(綱村)が家督をつぐ。伊達兵部少輔宗勝(綱宗の叔父)は後見として田村右京宗良や奉行原田甲斐宗輔らと共に藩政の実権を握った。老臣伊達安芸宗重はこれと対立し非違を幕府に訴え、寛文11(1671)年の裁きの席上、宗重は原田甲斐に斬殺され、甲斐もその場で斬死、宗勝は土佐藩にお預け、宗良は閉門となった。

いわての文化情報大事典(いわての城・館:一関城