江戸時代は、参勤交代と経済活動の進展によって他地域との交流が本格的にはじまった時代といえます。藩によって街道が整備され、また交通の要衝には番所が設けられ、人馬や貨物の交通・交易を取り締まりました。盛岡藩の場合、藩内の街道の起点は鍛冶町(かじちょう・盛岡市紺屋町)で、藩領を南北に縦貫する奥州道中(街道)と、秋田街道(雫石街道)・鹿角街道・宮古街道(閉伊街道)・大槌街道・釜石街道・野田街道などの脇街道が分岐していました。番所は北端の北郡馬門(まかど・青森県)、南端の和賀郡鬼柳(おにやなぎ・北上市)など18カ所に境目(さかいめ)番所(口留番所・くちどめばんしょとも呼ぶ)を置いて隣藩との交通・交易を取り締まり、藩内には物留番所や中番所がそれぞれ4カ所づつ置かれました。
また、参勤交代によって江戸滞在を余儀なくされた諸大名は、江戸での日常消費物資をはじめ、蔵米その他の販売物資を国元から運送しなければなりませんでした。盛岡藩の場合、江戸初期には閉伊地方の各湊から送られていましたが、慶安期(1648〜52)以降は、北上川舟運(しゅううん)と東廻り海運が利用されました。北上川舟運は盛岡の新山河岸(しんざんかし・明治橋付近)から郡山(日詰)河岸(紫波町)を経由、藩領南端の黒沢尻(くろさわじり)河岸(北上市)までは小型の小繰船(最大幅1.8メートル、長さ16メートル、積載量100俵程度)を利用し、黒沢尻で大型の船(ひらたぶね・最大幅4.5メートル、全長18〜20メートル、積載量350俵程度)に乗せ換えて石巻湊(宮城県石巻市)まで荷を運び、石巻から江戸までは海路が利用されました。