19世紀に入ると諸藩の財政難は幕藩体制をあやしくさせ、ペリーの来航に始まる開国問題は、体制を決定的な危機に追い込み、討幕運動が起こります。討幕派の先手をうって慶応3(1867)年、十五代将軍の徳川慶喜(よしのぶ)が大政奉還しますが、討幕派は慶喜に辞官・納地を要求、慶応4(1868)年1月3日、京都の鳥羽・伏見で武力衝突が起きて戊辰(ぼしん)戦争が始まります。
朝廷は1月17日、仙台藩に慶喜に与した会津藩征討を命じ、盛岡藩にも征討応援の命が下ります。3月に奥羽鎮撫総督(おううちんぶそうとく)の九条道孝(くじょうみちたか)が仙台に入り、4月に仙台藩はやむを得ず会津に出兵を開始します。しかしこのころから出兵を強要する総督府に対する奥羽諸藩の反感が強まり、5月、仙台・米沢両藩主の主唱による奥羽25藩の「奥羽列藩同盟」が成立。のちに北越の6藩も加わり(「奥羽越列藩同盟」)、新政府への対決姿勢を強めました。
この間に仙台を脱出し、盛岡を経由して秋田に入った九条総督を6月に迎えた秋田藩は藩論を転換、奥羽越列藩同盟から離脱します。7月、仙台藩・庄内藩・一関藩が秋田侵攻を開始、盛岡藩も8月に参戦します。しかし大勢は新政府軍に有利で9月15日仙台藩が降伏、盛岡藩は25日に降伏し、最後の賊軍として戊辰戦争は終わりました。
元号が変わって明治元(1868)年、敗戦の結果、盛岡藩は7万両の賠償金支払いと白石(しろいし・宮城県白石市)への転封が命ぜられます。明治2(1869)年3月に南部彦太郎(のちの利恭(としゆき))は版(領地)籍(人民)を奉還、6月に白石藩知事となります。しかし7月、旧領復帰運動が実って、70万両献金を条件に盛岡復帰が許されます。ただし領地は岩手・紫波(しわ)・稗貫(ひえぬき)・和賀(わが)の四郡で、石高は13万石でした。
この時点で、現在の岩手県には盛岡・八戸・一関の三藩と、江刺・胆沢(いさわ)・三戸(さんのへ)の三県があり、さらに11月、旧会津藩による斗南(となみ)藩創設によって、北郡・三戸郡・二戸郡の一部が斗南藩領となったため、三戸県の残部は江刺県に編入されます。江刺県は遠野に本庁を置き、気仙(けせん)・江刺・閉伊(へい)・九戸(くのへ)の一部・鹿角・二戸で構成されました。
盛岡復帰を許された盛岡藩でしたが、領地を減らされたうえ献金が負担となって財政は破綻寸前となり、大参事の東(ひがし)次郎の建白に従って明治3(1870)年5月、他藩に先駆けて廃藩置県を願い出て、新たに盛岡県が置かれました。その後、明治4(1871)年7月の廃藩置県で八戸・一関・斗南の三藩も県となり、同年、さらに府県統合が行われて、現在の岩手県は、二戸郡は青森県、旧盛岡藩領は盛岡県、旧仙台藩領が一関県となります。一関県の管轄は県南の五郡(遠野・江刺・胆沢・磐井・気仙)のほか、現宮城県の本吉(もとよし)・登米(とめ)・栗原(くりはら)・玉造(たまつくり)の諸郡を含んでいました。県名は12月に水沢県、さらに明治8(1875)年11月には磐井県と変更され、本庁も一関から登米郡寺池町(宮城県登米町)、再度一関へと移されました。盛岡県は明治5(1872)年に岩手県に改称、明治9(1876)年4月に磐井県が二分され北部の三郡が岩手県に編入されます。さらに同年5月に宮城県に属していた気仙郡と、青森県の二戸郡を編入し、現在の岩手県域が成立しました。
わての文化情報大事典(いわての鉱山史:近代鉱山への脱皮)