5世紀後半、中国の歴史書である『宋書夷蛮伝(そうじょいばんでん)・倭国(わこく)条』でエミシははじめ「毛人(もうじん)」と表記され、大和朝廷からみて東国(あずまのくに)に住む人々を指しました。「毛人」が「蝦夷(えみし)」に変わるのは7世紀中ごろ、斉明天皇5(659)年にわが国が唐に朝貢し夷人を献上した「道奥(みちのく=陸奥)蝦夷男女二人を天子に示す」(『日本書紀』)からです。この中で蝦夷は都加留(つがる)・麁蝦夷(あらえびす)・熟蝦夷(にぎえびす)の3種があることが述べられています。以後、エミシは辺境に住む「王化に従わず、農桑も知らない荒ぶる民」であり、これに天皇の威徳を知らせるべき対象とされました。
 膳性(ぜんしょう)遺跡(奥州市)は、「単位集団」と呼ばれる、大型住居を中心に7棟程度の住居が固まった遺跡で、畿内から各地の有力首長層に配られた「圭頭大刀柄頭(けいとうのたちつかがしら)」が出土しました。これは単位集団の家長的存在を超え、首長層に成長していたエミシがいたことを表しています。
 エミシ社会が7世紀代に新たな政治的体制をつくりだす契機には、東国との馬匹生産とそれに付随する交流があると考えられます。一方、7世紀中ごろからは、中央政権は城柵を造営して東北北部を律令体制下に置くことをもくろみ、エミシは律令社会の影響を受け始めます。これは8世紀初めの陸奥国府・多賀城の造営以降、特に顕著になります。エミシは陸奥国府へ昆布などの特産品を「貢物」として持参(エミシ朝貢という)し、それに対して中央政府から和同開珎(わどうかいちん)や帯金具(かたいかなぐ=朝服用の黒漆塗りで革製の帯に、金・銀・銅などの飾りを付けるための金具)、蕨手刀(わらびてとう)などが支給されます。エミシ社会では、これらのものを所有することが彼らの世界での社会的地位や身分の象徴となっていきました。