奈良時代の神亀元(724)年に多賀城に国府(律令制度で一国ごとに置かれた国司の役所。国衙(こくが)ともいわれる)と鎮守府(蝦夷を鎮撫するために陸奥国に置かれた官庁)が置かれ、朝廷による宮城県北以北の本格的な支配体制づくりが始まると、エミシとの緊張関係が強まります。朝廷は陸奥国の北上川流域に桃生(ものう)城、内陸地方に伊治(これはる)城、出羽国に小勝(雄勝)城を造営し、支配地を広げていきます。これに対して、多賀城創建前後にはエミシによる陸奥按察使(あぜち・諸国の行政を監察した官)や国司大掾(だいじょう)などの朝廷官人の殺害事件、宝亀元(770)年には国府側に協力していた宇漢迷公宇屈波宇(うかんめのきみうくつはう)の反乱、宝亀5(774)年にはエミシによる桃生城攻略事件などが起こり、エミシと朝廷との関係は最悪の状態に陥りました。  
 延暦5(786)年、朝廷の胆沢(いさわ)遠征の準備が始まります。動員された朝廷軍は5万人以上、桓武天皇から征東大将軍を命じられたのが紀古佐美(きのこさみ)でした。延暦8(789)年に多賀城を出発した征東軍は衣川に到着、巣伏村(すぶしむら・現在の岩手県奥州市)目指して進撃を開始しました。これに対したのがエミシの首長、大墓公阿弖利為(たものきみあてりい、または阿弖流為(あてるい))と、盤具公母礼(いわぐのきみもれ)、アテルイとモレです。
 史上有名な「延暦八年の胆沢合戦」は陽動作戦が成功し、エミシ側の勝利に終わります。大敗した朝廷軍は翌延暦9(790)年、第2回胆沢遠征を準備。この時、征夷副使に任命されたのが坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)でした。延暦13(794)年から始まった第2回遠征で損害を受けたエミシ側は、延暦20(801)年、陸奥出羽按察使(あぜち)兼陸奥守兼鎮守将軍で、征夷大将軍に任命された田村麻呂に完敗を喫します。アテルイとモレは、翌延暦21(802)年に田村麻呂が造営した胆沢城(いさわじょう・奥州市)に投降します。京に送られたアテルイとモレは、田村麻呂の必死の嘆願にもかかわらず、河内国椙山(すぎやま)で斬首となり、エミシの時代に幕が降ろされました。