場所
北上市和賀町岩崎
現在の名称
岩崎公民館
地勢と遺構
夏油(げとう)川に沿ってのびる比高約20メートルの左岸舌状台地に位置し、その北側、山のふもとにあたる城内という集落一帯を含む。3郭で構成され、中央部が本丸にあたり面積は約5,000平方メートルで、現在は天守を模した岩崎公民館が建つ。南側には約15,000平方メートルの三の丸、北側には約2,000平方メートルの二の丸があるが、二の丸は夏油川に削られたものと思われる。各郭の周縁には高さ約2メートルの土塁が築かれていたが、三の丸以外はほとんど消失している。各郭は空堀で仕切られ、幅20メートル、高さ15メートルに達する所もある。
城内は和賀川低湿地を前面にした低台地で、約25,000平方メートルと広大である。内部は台地に沿って3郭から構成されていたと考えられる。
※岩崎公民館は岩崎城を復元したものではありません。当時の城とは外観が異なります。
歴史
岩崎城は室町時代の前後約400年間に渡って和賀地方を治めていた和賀氏一族の城で、本城である二子(飛勢)城に次ぐ規模を誇る。別名「和賀盾」とも呼ばれ、南北朝時代には岩崎大炊(いわさきおおい)が居住し、暦応(りゃくおう)4年(1341)には領界を接する煤孫(すすまご)氏・鬼柳(おにやなぎ)氏の合戦があり鬼柳方に討死者が出たという記録も残っている。さらに享禄4年(1531)には和賀氏と秋田仙北の小田嶋党との合戦に岩崎氏が参戦していることから、代々岩崎氏の居館だったと考えられる。天正18年(1590)、豊臣秀吉の奥州仕置によって和賀氏の領地は取り上げられたが、慶長5年(1600)和賀一族は岩崎城にたてこもって蜂起、南部氏と戦った。鎮圧後は南部氏によって修理され、藩境警備のため南部家家臣が入城している。
交通
北上駅から車で約20分