場所

金ヶ崎町西根字白糸

現在の名称

金ヶ崎城跡・諏訪公園

地勢と遺構

地勢と遺構北上川と胆沢川が合流する北岸平坦地にあり、直下を宿内川が流れる。標高は52~54メートルと起伏が少なく郭は5つ、北西-南東方向に約600メートル、北東-南西方向に約170メートルの範囲に認められる。郭は北西から順に丸子館、二の丸、本丸、東館、その他である。各郭は幅10~15メートルの空堀で区画され、北西部(宿内川方面)は自然地形の崖を利用。二の丸西辺の一部に高さ50センチの土塁が残存している。

歴史

近世の新領主・南部信直は重臣である北秀愛(きたひでちか)に8,000石を与え、鳥谷ヶ崎に城代として入城させた。この時、秀愛がそれまでの「鳥谷ヶ崎」という名を「花巻」と改め、城下町の整備や城の改修に着手した。秀愛の死後は父・松斎信愛(しょうさいのぶちか)が事業を継承したが慶長18年(1613)死去した。藩主・南部利直は長子の政直に和賀・稗貫(ひえぬき)の地から2万石を与え花巻城主とし、仙台藩境の警備にあたらせた。政直の死後は嫡子がなく、寛永元年(1624)からは城代を置き、以後明治維新まで存続した。
安土桃山時代末期まで、鳥谷ヶ崎は稗貫氏の本拠地であった。稗貫氏は鎌倉時代、源頼朝に稗貫郡を与えられ入部、中世末期まで続いた豪族である。所領は現在の南部を除く花巻市に及び「稗貫五十三郷」といわれる。各郷に一族・家臣を置き、諸城を築いていた。当初は小瀬川館(あるいは瀬川館)を本拠としたが、郡内各地を転々として最終的に鳥谷ヶ崎に城を構えた。史料によると永享8年(1436)以降のことであると思われる。
天正18年(1590)稗貫広忠(ひえぬきひろただ)の代に、豊臣秀吉の小田原攻めに参戦しなかったことで所領を没収・居城追放となった。しかし、広忠は同じく所領を没収された弟・和賀義忠(わがよしただ)がかつての本拠・二子城を攻めるのに呼応して鳥谷ヶ崎奪還に立ち上がり、一時は成功したと伝えられている。その後広忠については伊達政宗を頼り、平泉周辺に、そののち旧臣矢沢三河守の所へ移ったと伝えられている。

交通

花巻駅から車で約5分