場所

奥州市江刺岩谷堂字館下

現在の名称

館山歴史公園・県立岩谷堂高校グランド

地勢と遺構

江刺(えさし)区街地の北西部の丘陵に位置し、北から南にのびる丘陵の南端部を占め、頂部の比高は約70メートル。眼下には人首川(ひとかべがわ)が流れる。本丸とされるのは北端部の最高部・八幡神社の境内で規模は90メートル四方、周辺部に土塁が築かれているほか、樹齢800年以上といわれるイチョウの巨木が立っている。本丸には藤原経清(ふじわらつねきよ)・清衡(きよひら)親子を顕彰する二清院が建立されている。本丸の南西部には中の郭、その先には二の丸があり、現在は岩谷堂高校グランドとして使用されている。南西部の岩谷堂高校や岩谷堂小学校校舎がある地域が外郭と思われるが、市街地化が進み、詳細は不明である。

歴史

鎌倉時代以前からこの地に城があったと考えられているが、諸説あり詳細は不明である。
南北朝以後は江刺氏が江刺郡の惣領職にあったと思われ、葛西信詮(かさいのぶあき)の次男・江刺信満を岩谷堂城主とする史料がある。江刺氏は勢力を拡大し、やがて葛西宗家(かさいそうけ:本家の意)と対立、慶安(けいあん)元年(1361)や文明(ぶんめい)17年(1485)に葛西氏との合戦があったという記録がある。明応4年(1495)の葛西政信との合戦では江刺隆見が敗れ岩谷堂城は葛西重胤(かさいしげたね)が城主となった。しかし数代後の天正(てんしょう)13年(1585)ごろには葛西宗家から勘当され、江刺重恒(えさししげつね)が城主を継いでいる。豊臣秀吉の奥州仕置で葛西氏は没落するが、江刺氏は南部氏の家臣となり、稗貫郡新堀城、次いで土沢城(現在の花巻市東和町)の城主として仙台藩境の警備にあたった。
江刺氏の去った岩谷堂城には木村吉清(きむらよしきよ)の家臣・溝口氏が入ったが一揆で殺害され、次いで伊達政宗の家臣・桑折(こおり)氏が入城、用水路の開削や湿地の干拓など、領地の整備を進めた。さらに万治(まんじ)2年(1659)には伊達家一門の岩城宗規(いわきむねのり)が入城、仙台藩北辺の要衝の地「岩谷堂要害屋敷」と呼ばれ明治維新を迎えた。

交通

水沢駅から車で約20分
東北道水沢ICから約15分