場所

盛岡市上鹿妻五兵衛新田48-1

現在の名称

志波城古代公園

地勢と遺構

雫石川右岸に形成された低位段丘面に立地し、かつては川が城の北辺そばを流れていたと思われる。外郭(がいかく)は土を固く積み上げた築地塀(ついじべい)と大溝に囲まれ、840メートル×930メートル四方で、各辺の中央には門と、60メートル間隔に配置された櫓(やぐら)が建てられた軍事色の強い施設である。
中央部には150メートル四方の政庁跡があり、外郭とは幅18メートルの大路で結ばれている。南・北門は壮大な八脚門があった。
外郭南門と政庁南門が復元されている。外郭南門は間口15メートル、高さ11.1メートルで、平城京朱雀門(へいじょうきょうすざくもん・奈良市)に次ぐ復元規模である。門の両側には高さ4.5メートル、長さ252メートルの築地塀(長さ日本一の復元規模)や、高さ6.95メートルの櫓10基も復元されている。
志波城はその規模が鎮守府胆沢城より大きく多賀城(宮城県)に匹敵し、政庁は多賀城の2倍、胆沢城の3倍となっている。

歴史

胆沢地方を攻略し、胆沢城を造営した坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)が北上、延暦22年(803)に雫石河畔に造営した陸奥国最北端の古代城柵である。胆沢城の北辺をエミシから守るための城で、この城ができたことで治安が安定し、鎮守府を多賀城から胆沢城に移すことができたと考えられている。しかし造営後は水害などのために10年ほどで廃城となり、その機能は徳丹城(とくたんじょう・現在の矢巾町)に移転している。
かつて志波城はその位置がはっきりせず、紫波町古舘付近を中心にいくつかの擬定地があったが、大正14年(1925)以後の現地踏破や発掘調査、特に昭和51年(1976)からの東北自動車道建設のための発掘調査によって、それまで太田方八丁(おおたほうはっちょう)遺跡と呼ばれていた場所が志波城であることが昭和54年に確定された。昭和59年には国指定の史跡となっている。

交通

盛岡駅から車で約10分
東北道盛岡IC、盛岡南ICから約10分