北上川中流域の「胆沢(いさわ)」の地が史上に現われてくるのは、朝廷の東北経営の北進に伴い、8世紀後半の宝亀(ほうき)7年(776)のことである。この時期は、律令政府の攻撃目標が陸奥(むつ)国最大のエミシ勢力の拠点「胆沢の地」にしぼられてきた段階で、以後延暦(えんりゃく)20年(801)まで、古代国家と阿弖流為(あてるい)・母礼(もれ)を中心としたエミシ軍との戦いが展開する。