場所

矢巾町西徳田

現在の名称

徳丹城跡

地勢と遺構

北上川西岸の低位段丘上に位置し、正方形の一辺は約350メートルと胆沢城(約670メートル)、志波城(短辺約840メートル)と比べ小規模である。外郭は太さ30~40センチの丸太によって囲まれ、70メートルおきに櫓が設けられていたと思われる。外郭の東西南北に門があり、南北の門は中央に、東西の門は北に寄っている。正面にあたる南門は徳田神社境内にあり、径45センチ以上の丸太を用いた八脚門で瓦葺きだった可能性が高い。城の中心部である内城は中央やや北寄りにあり、一辺は約80メートル。正殿は東西14.57メートル、南北5.91メートルの規模をもつ南向き東西棟であったと考えられる。
現在は町立徳田小学校の南に隣接し、城跡を国道4号が縦断している。

歴史

朝廷の最前線基地として機能した志波城(しわじょう・現在の盛岡市)が雫石川の氾濫(はんらん)などにより移転が余儀なくされ、弘仁(こうにん)2年(811)に爾薩体(にさたい)・幣伊(へい)を制圧した征夷大将軍文屋綿麻呂(ふんやのわたまろ)が弘仁3年(812)ごろに造営に着手したと思われる。弘仁6年(815)の官符には胆沢城(いさわじょう)と並んで徳丹城の名前が見え、志波城は消えていることから、弘仁5年(814)ごろには完成していた考えられている。昭和44年には国指定の史跡となり、隣接地には矢巾町歴史民俗資料館が整備されている。

交通

矢巾駅から車で約5分