近代製鉄の誕生

 三陸沿岸の釜石と北上高地の遠野の間の山岳地帯は、片羽山の雄岳を主峰に六角牛山、雌岳、大峰山、岩倉山など1,000メートル級の高峰が連なり、良質な鉄鉱石に恵まれた地域です。盛岡藩士・大島高任(おおしまたかとう)による我が国最初の洋式高炉は、これらの鉄鉱石、燃料となる豊富な森林資源、送風装置の動力源となる水流を利用し、まず安政4年(1857)に大槌通甲子村(現在の釜石市)を流れる甲子川の上流に大橋高炉が、翌年には釜石・栗林村を流れる橋野川の支流である青ノ木川上流の青ノ木地区に橋野高炉(国指定史跡)が建設されました。こうして盛岡藩内には慶応元年(1865)までの間に大橋3、橋野3、佐比内(遠野市上郷町)2、栗林(釜石市)1、砂子渡(釜石市甲子町)1の計10基の溶鉱炉が建設され、年間100万貫(3,750トン)の銑鉄(せんてつ)の生産が計画されました。

 攘夷運動が激しさを増していたこのころ、諸藩は海防のため大砲の鋳造を試みていました。しかし、それまでの製鉄は砂鉄と木炭を原料とし蹈鞴(たたら=足で踏んで空気を吹き送る大きなふいご)を用いて行う伝統的な和鉄精錬法で、この製法でつくられた鉄は硬性であるため、大砲のような高性能の武器用としては亀裂が生じやすく不向きでした。大島は釜石の豊富な鉄鉱石に着目、反射炉(高炉)を使って柔鉄(鉄鉱石から精錬した銑鉄)を生産し、我が国の製鉄業近代化の礎を築きました。