読み仮名 | もりおかじょうあと |
---|---|
指定種別 | 国指定 |
種別 | 史跡 |
指定年月日 | 1937年 4月 17日 |
指定詳細 | |
数量 | |
所在地 | 盛岡市内丸 |
所有者 | 盛岡市 外 |
保持団体 | |
管理団体 | 盛岡市 |
ホームページ | いわての文化情報大事典(いわての城・館:盛岡城) |
概要
北上川東岸と中津川の北岸にある丘陵を利用して構築した南部氏の居城である。
天正19年(1591)、豊臣秀吉は諸将を遣わして九戸城に立てこもる九戸政実を破り全国統一を達成した。
その際、南部信直は功によって和賀・稗貫・紫波を給せられ、領域は南に拡大した。
九戸合戦の帰途、秀吉の武将浅野長政らに、三戸からこの地に移転すべきことを勧められたと伝えられる。
この地は古来、不来方(こずかた)と称し南館と北館の2丘陵があったが、築城工事は北館を切り崩し、南館中心に進められたという。
築城は、南部信直によって計画されたが、工事は27代利直によって築営された。
途中、水害などのため破損して完成が遅れ、居城が確定したのは29代重信のときである。
延宝元年(1673)旧北上川河道の切替え工事にともない二の丸・三の丸側腰曲輪・榊山曲輪におよぶ土手の石垣組みが完成して、現在の盛岡城の全容となった。
城郭は、本丸・二の丸・三の丸その他の曲輪からなり、本域を囲む石垣は盛岡産の花崗岩で積み上げられ見事な石塁美を作っている。