読み仮名 | じょうどがはま |
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指定種別 | 国指定 |
種別 | 名勝 |
指定年月日 | 2012年 1月 24日 |
指定詳細 | |
数量 | |
所在地 | 宮古市日立浜町 他 |
所有者 | 宮古市 外 |
保持団体 | |
管理団体 | |
ホームページ | 宮古市(浄土ヶ浜) |
概要
三陸海岸の中央部に位置する宮古湾の、西岸から湾内に突き出た臼木(うすぎ)半島の北東端部には、白色の岩塊群とその内側の礫浜から構成される浄土ヶ浜の海浜が展開する。浄土ヶ浜は、約1万年前に当たるヴィルム氷河期に半島として成立し、その後、海進と海退を繰り返す過程で、現在の鋭い形状の岩塊群からなる半島と、礫浜からなる内湾が成立したものと考えられている。
一群の岩塊及び内湾の礫浜は流紋岩(りゅうもんがん)からなり、臼木半島の北側に展開する蛸の浜(たこのはま)のように、泥岩(でいがん)などの黒みのある岩質からなる海浜とは対照的に照り輝くような美しい乳白色を呈する。それらのうち、大きな岩塊の頂部付近は波の影響を受けにくく、アカマツなどの高木類やヤマツツジなどの低木類が見られ、その下方にはハマギクやスカシユリなどの草本類が岩面に張り付くように生育している。海面から天を鋭く突くかの如く連なって並ぶ乳白色の岩塊群と、岩塊群の上半部を穏やかに彩る緑の樹木等との対比が、浄土ヶ浜の景観を際立ったものとしている。
そのような独特で美しい形状や色彩を持つ浄土ヶ浜の景観は、江戸時代の紀行文等において、自然が造形した「浄土」の光景として広く紹介されるようになった。その最も初期のものは、17世紀末期に宮古の常安寺住職の霊鏡龍湖(れいきゅうりゅうこ)が詠んだ漢詩であるとされ、現在でも岩塊の東面には龍湖により命名されたとされる「賽(さい)の河原」の浜辺と「賽の河原地蔵」と呼ぶ石仏像が残されている。
また、近代においては、大正6年(1917)に宮沢賢治が浄土ヶ浜を訪れ、昆布の干場として使われた礫浜の風景を詠んだ「うるわしの海のビロード昆布らは寂光のはまに敷かれひかりぬ」などを含む計5首の短歌を残した。
以上のように、乳白色の岩塊が連続する半島部及びその内湾の礫浜からなる浄土ヶ浜は、「浄土」の光景になぞらえて知られるようになった海浜の景観であり、近世の紀行文等に紹介され、近代以降は宮沢賢治の短歌にも詠まれるなど、三陸地方沿岸の名勝地として広く知られるようになった。