読み仮名 | かえいろくねんもりおかはんさんへいどおりひゃくしょういっきはたけやまけもんじょ つけたり さんじゅうばこ |
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指定種別 | 県指定 |
種別 | 古文書 |
指定年月日 | 2015年 4月 7日 |
指定詳細 | |
数量 | 古文書3通 三重箱1組 |
所在地 | 下閉伊郡田野畑村田野畑 |
所有者 | 個人 |
保持団体 | |
管理団体 | |
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概要
当該文書は嘉永6年(1853)に発生した、規模・政治意識・組織・戦術・効果・性格の諸点で我が国最大の百姓一揆とされている「盛岡藩三閉伊通百姓一揆」に関し、畠山家に伝来する古文書である。
文書は以下の3つからなる。
(1)「南部弥六郎奥書黒印状」
一揆に参加した三閉伊通の惣百姓(一般農民)に対して一切の処罰は行わないので安心して帰村するように、盛岡藩の目付2名の連名捺印で約束し、さらに藩の大老である南部弥六郎の奥書を付し記名捺印して保証した証文である。本文書は、同時代の盛岡藩側から見た記録である「内史略」、同じく仙台藩気仙郡大肝入吉田家の「南部御領百姓共歎訴唐丹村迄立越候留」に収録され、一揆参加者の免罪を盛岡藩が保証した証文として重要視された文書の原本である。我が国最大の百姓一揆を象徴する資料として重要である。
(2)「奉差上一札之事写」
上記(1)と同時に一揆側が藩に対して、約定がなったうえは間違いなく帰村する旨を約束した証文である。原本は藩に提出したのでこれは一揆側に残した写しである。
(3)「乍恐奉申上候口上書之御事写」
折衝中に一揆側が仙台藩気仙郡代官に、盛岡藩はこれまで重過ぎる税を課してきた家老・用人が更迭されず、心ある重臣は未だ閉門の有様で、帰国してもどのような処罰が下るかわからないので、仙台藩の百姓にしてほしいと訴えたものである。これも一揆側に残した写しである。
(2)及び(3)はともに後日のための写しであるが、前者は「内史略」「南部御領百姓共歎訴唐丹村迄立越候留」に、後者は「南部御領百姓共歎訴唐丹村迄立越候留」に収録され、一揆の性格を知るうえで重要である。