
本名 | 三鬼隆 |
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生没年 | 1892-1952 |
職業 | 実業家 |
出身地 | 盛岡市 |
解説
日本製鐵㈱・八幡製鐵㈱(現:日本製鉄㈱)社長。1892(明治25)年、盛岡市出身。1917(大正6)年に東京帝国大学を卒業後、田中鉱山㈱に入社。1919(大正8)年に、労働争議が吹き荒れる釜石鉱業所に本社連絡員として派遣され、翌年、庶務主任として着任。職場内に工場委員会「真道会」を創設のうえ、「大運動会」を開催し職位を越えた和睦に尽力するなど、企業内福利厚生の礎を築く。1933(昭和8)年に発生した昭和三陸地震による津波被害の際は、救済活動に尽力した。製鉄合同による国策会社である日本製鐵㈱の創設時の1934(昭和9)年には、参事兼釜石製鉄所庶務部長、1939(昭和14)年、清津(現:朝鮮民主主義人民共和国)の製鉄所長、1945(昭和20)年八幡製鉄所長、翌年、日本製鐵㈱社長、日本鉄鋼連盟会長を歴任する。1950(昭和25)年、GHQの過度経済力集中排除法適用による八幡・富士製鐵の二社分割に伴い、八幡製鐵㈱の初代社長に就任。一貫した「和」の精神に基づく経営で業績を上げ、日本を代表する財界人として更なる活躍を期待されていたが、1952(昭和27)年、搭乗していた日本航空「もく星」号墜落事故により、61歳で逝去。
【註】
〇日本製鐵株式會社(にほんせいてつ)
官営八幡製鉄所を中心に、輪西製鐵(北海道)・釜石鉱山などをはじめとする官民合同8社により設立。会社設立の前年である1933(昭和8)年に、「日本製鐵株式會社法」(日鉄法)で経営が規定された、半官半民による国内最大の鉄鋼会社であったが、1950(昭和25)年に、GHQによる過度経済力集中排除法の適用を受け、八幡製鐵㈱、富士製鐵㈱に分割された。
〇日本製鉄株式会社(にっぽんせいてつ)
八幡製鐵㈱と富士製鐵㈱が1970(昭和45)年に再度合併し、国内最大の鉄鋼会社、新日本製鐵㈱が設立される。平成24(2012)年に住友金属工業㈱が合併して新日鐵住金㈱となり、平成30(2019)年4月、日本製鉄㈱として商号が変更され現在に至る。
写真提供: 日本製鉄株式会社北日本製鉄所釜石地区