出羽国平賀(ひらが)郡の横手と陸奥国和賀郡の北上を結ぶ街道を、郡名の首字を合わせて平和街道と呼びます。平和街道の名称は、明治13(1880)年秋田県と岩手県が共同で開削工事に着手し、翌年の竣工後に名付けられたもので、それまでは秋田領からは南部道、盛岡藩側では領内の脇街道として岩崎街道・沢内(さわうち)街道などと呼んでいました。白木(しろき)峠は盛岡・秋田両藩の境界で、峠の東西には共に番所が置かれ監視されましたが、庶民レベルでは活発な交流が繰り広げられました。鉄や馬、塩あるいは塩魚・干物類が流通し、秋田領からは湯本や湯川に湯治に出かける者もいました。しかしこの街道は、奥羽大名の参勤交代路として本陣や伝馬(てんま)の制度が整えられることもなく、全体として脇街道の域を出るものではありませんでした。