いわての鉱山史 いわての鉱山史イメージ
鹿角の金山・銅山
■近代鉱山への脱皮  

 幕末から明治にかけて、鉱山経営の面では藩営から会社経営に、技術面では旧来の手掘方法から、西洋式の機械掘削方法へと大きな転換がおこなわれます。
 明治5年(1872)大蔵省は盛岡藩の献納金処理にからむ明治初期最大の疑獄事件「尾去沢銅山事件」で、鉱山の稼行権(鉱業権)を盛岡の商人・鍵屋茂兵衛(村井京助)から没収し岡田平蔵に払い下げます。明治維新で白石に転封され、盛岡復帰の条件として70万両もの莫大な献納金を課せられた藩は英国人オールトから借用しましたが償還の方途に失敗、尾去沢銅山を経営していた鍵屋に鉱山を払い下げて運用させ、その利益で返済を命じました。ところが運用を始めた矢先に全額返済を迫られ、結局、オールトは明治政府に訴訟を起こします。政府は肩代わりして返済し、藩に代わって一切の責任を負うことになった鍵屋が保有していた鉱山の鉱業権を没収しました。これにより幕末に栄華を極め、江戸、京、大坂などにも支店を拡大していた豪商・鍵屋は没落します。
 鉱業権はさらに数人の経営者の手を経て明治22年(1889)岩崎家に渡り、これ以降閉山までの約90年の間、三菱の経営により鉱山史を通じてピークを迎える事になります。
 大正5年(1916)浮遊選鉱法を取り入れた最新式の選鉱場(せんこうじょう)が完成し、近代鉱山としての態勢が整います。時局は日清・日露の戦争にはじまり、やがては第一次、第二次世界大戦へと軍事色が強まっていくとともに、軍需物資でもある銅の需要は急増し、これに応える形で生産も飛躍的に増大していきました。
 そして昭和18年(1943)、軍需省の要請により超非常増産として、東洋一といわれた月間10万トンの鉱石を処理できる選鉱場が増築されて、生産(出鉱)態勢が整い、ここに尾去沢鉱山は最盛期を迎えたのです。この年の出鉱量は103万トンと史上最高を記録しています。


選鉱場跡
戻る トップ    次へ