盛岡藩の家格は創設以来10万石の外様中藩でしたが、文化5(1808)年、高直(たかなお)し運動が実り、領域はそのままで20万石の外様大藩に格上げされました。このことには、藩創設以来の弘前藩との対立が大きな要因となっています。
 弘前藩との対立は、それまで南部氏が支配していた津軽地方が、大浦(津軽)為信(おおうらためのぶ)のいち早い小田原参陣によって豊臣秀吉に公認され、南部氏の領地でなくなった天正18(1590)年の奥羽仕置(おううしおき・奥羽の諸大名の成敗)に端を発します。
 天明4(1784)年に、盛岡藩十一代藩主となった南部利敬(としたか)は、蝦夷地(北海道)警護への功績と藩政推進の助けになるという理由で官位昇進運動を展開し、文化元(1804)年、それまでの従五位下(じゅごいのげ)から四品(しほん・四位)に昇進します。ところがこの運動を展開するなかで文化2(1805)年、弘前藩九代藩主の津軽寧親(やすちか)が4万6,000石から7万石に高直しされました。このことに不満を抱いた利敬は、蝦夷地永久警護を条件に高直し運動を行い、盛岡藩は文化5(1808)年に20万石に高直しされ、利敬は侍従に任官します。しかし弘前藩も同じ日に、蝦夷地警護の功によって10万石に高直しされます。このことが「相馬大作事件」の引き金となります。