繰り返される飢餓と一揆
 盛岡藩の財政は、元禄・宝暦・天明・天保の四大飢饉(ききん)など度重なる凶作、鉱山経営の金山から銅山への転換による収入減、大井川改修や日光山本坊改修など幕府からのたびたび要求される御手伝普請(おてつだいぶしん)、蝦夷地(えぞち・北海道)警護のための負担、20万石への加増に伴う付き合いと軍役の増加などによって疲弊し、商人や農民への負担強制につながりました。これが藩政期を通じて約140件という、全国一の「一揆多発藩」となった原因といわれています。

一揆の像(田野畑村)
一揆の指導者・三浦命助像
 特に弘化4(1847)年、6万両の御用金徴収反対に端を発した野田通安家村(あっかむら・岩泉町)からおこった一揆は、周辺の村々を巻き込んで、またたく間に数千人の規模にふくらみました。一揆勢は大芦野(おおあしの・田野畑村)に集結、小本(おもと・岩泉町)、田老(たろう・宮古市)、宮古、山田、大槌(おおつち)と南下し、栗林村(釜石市)の一揆とも合流して遠野に至った時には1万2,000人にも達しました。この一揆は三閉伊(さんへい・野田、宮古、大槌の三通)の農民が藩政改革を求めて遠野に強訴したもので、遠野領主の尽力によって一人の処分者も出さず、25カ条の要求のうち、12カ条を受け入れさせることに成功しました。
 嘉永6(1853)年、再び御用金の徴収が強制されると、田野畑・羅賀(らが・田野畑村)・普代・黒崎(普代村)の農民が密談し、これに沼袋(田野畑村)と浜岩泉(岩泉町)の農民が結集し、一斉蜂起が起きました。村々を巻き込みながら南下を始めた一揆勢が釜石に到着した時には1万6,000人にふくれあがる最大規模の全藩一揆となって、藩境を超えて仙台藩領の気仙郡唐丹村(けせんぐんとうにむら・釜石市)に入ります。この一揆は、盛岡藩主の更迭と藩政改革を要求、それがかなわない場合は三閉伊の幕領または仙台藩領化を願い出たもので、処分者を出さず、藩首脳の交代と要求項目49カ条のうち39カ条を受け入れさせることに成功しました。

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