盛岡市街に入り新穀町惣門を出て鉈屋町に入ります。鉈屋町は幅員が昔とほとんど変わらず、面影を残しています。

 縄文時代の指標は土器と弓矢にあります。
 県内最古の土器は、盛岡市大新町(だいしんちょう)遺跡と岩泉町龍泉新洞遺跡出土の、表面に爪形の文様のある草創期(約1万年以前)後半の丸底風の「爪形文土器」で、大新町遺跡ではさらに「石鏃(せきぞく=やじり)」「石錐(いしきり)」「矢柄研磨器(矢の幹を研磨する、またはまっすぐに整形するための砥石)」などの石器がいっしょに出土しています。これは弓矢を使用していたことを表す証左といえます。
 早期(約6000年前以前)になると竪穴式住居がつくられる集落が現れる時代、前期(約5000年前以前)は定住が促進され、100棟以上の住居跡や多量の貯蔵穴、墓地などで構成される拠点集落が、中期(約4000年前以前)は掘立柱建物と大型住居、墓、貯蔵穴群などが同心円上に配置される「環状集落」が登場、後期(約3000年前以前)は各種の呪術・祭祀的遺物が増え、環状列石(ストーンサークル)などの祭祀遺構が見られる時代、晩期(約2300年前以前)は「亀ヶ岡文化(青森県木造町亀ヶ岡遺跡で出土した土器に代表される、精緻な美しい文様と変化に富む器形で知られる土器文化)」が栄え、精巧で豊富な種類の土器と土偶などが出土します。