江刺(えさし)郡豊田館(とよだのたち・奥州市)から磐井(いわい)郡平泉(平泉町)に居を構えた藤原清衡(きよひら)は、国府の威光を背景に、積極的な領国経営に乗り出します。当時、奥六郡の東と北には閉伊(へい)・久慈・糠部(ぬかのぶ)といった新たな郡が設けられていましたし、出羽国北部は陸奥国の管轄となり、鹿角郡と比内(ひない)郡が置かれ、青森県東部は糠部郡域に、西部は津軽諸郡が設置されました。本州最北端まで朝廷の支配下に置かれ、成立間もない北方の経営には、地域の実情を知る人物が不可欠だったわけです。清衡の実質的な支配地域は、現在の青森県・岩手県・秋田県のほぼ全域にわたっていました。
 絶大な資産と権力を手に入れた清衡は、大治元(1126)年、中尊寺に1,500人もの僧侶を集め、大規模な法会を営みました。中尊寺大伽藍の落慶法要です。