場所

花巻市城内

現在の名称

鳥谷ヶ崎公園ほか

地勢と遺構

北上川に沿って形成された台地が当方に大きく突き出した地を利用した平山城である。現在は市街地が広がり、城内には市役所や病院など大規模な施設が建ち、住宅も密集していて、城の形状はほぼ失われている。かつては北側を瀬川、北東を北上川が流れ、南には豊沢川と城の三方を河川に囲まれた急崖をなしていた。西側は台地続きのため幅30メートル以上の巨大な堀で切断し、崖がやや緩やかな南東斜面にまでめぐらしている。江戸時代の絵図によると、内郭は本丸、二の丸、三の丸に分かれ、それぞれを広い水堀で区画し、各郭の周囲には土塁や柵をめぐらしている。本丸に天守はなく、二の丸には郡代屋敷や馬場、御蔵が、三の丸は上級家臣団の屋敷になっていた。城の裏口にあたる搦手門(からめてもん)は「円城寺門」と呼ばれ、和賀氏の本拠・二子城大手門だったものを移築したもので、鳥谷ヶ崎(とやがさき)神社に現存している。また二の丸にあった「時鐘」は市役所前に移築されている。さらに二の丸周辺は鳥谷ヶ崎公園として整備され、平成7年に白壁の西御門が復元されている。

歴史

近世の新領主・南部信直は重臣である北秀愛(きたひでちか)に8,000石を与え、鳥谷ヶ崎に城代として入城させた。この時、秀愛がそれまでの「鳥谷ヶ崎」という名を「花巻」と改め、城下町の整備や城の改修に着手した。秀愛の死後は父・松斎信愛(しょうさいのぶちか)が事業を継承したが慶長18年(1613)死去した。藩主・南部利直は長子の政直に和賀・稗貫(ひえぬき)の地から2万石を与え花巻城主とし、仙台藩境の警備にあたらせた。政直の死後は嫡子がなく、寛永元年(1624)からは城代を置き、以後明治維新まで存続した。
安土桃山時代末期まで、鳥谷ヶ崎は稗貫氏の本拠地であった。稗貫氏は鎌倉時代、源頼朝に稗貫郡を与えられ入部、中世末期まで続いた豪族である。所領は現在の南部を除く花巻市に及び「稗貫五十三郷」といわれる。各郷に一族・家臣を置き、諸城を築いていた。当初は小瀬川館(あるいは瀬川館)を本拠としたが、郡内各地を転々として最終的に鳥谷ヶ崎に城を構えた。史料によると永享8年(1436)以降のことであると思われる。
天正18年(1590)稗貫広忠(ひえぬきひろただ)の代に、豊臣秀吉の小田原攻めに参戦しなかったことで所領を没収・居城追放となった。しかし、広忠は同じく所領を没収された弟・和賀義忠(わがよしただ)がかつての本拠・二子城を攻めるのに呼応して鳥谷ヶ崎奪還に立ち上がり、一時は成功したと伝えられている。その後広忠については伊達政宗を頼り、平泉周辺に、そののち旧臣矢沢三河守の所へ移ったと伝えられている。

交通

花巻駅から車で約5分