場所

一関市釣山

現在の名称

釣山公園

地勢と遺構

近世一関藩主・田村氏の居館は釣山の東裾(現在の城内地区)にあり、釣山は藩主の居館を見下ろす場所のため庶民は入ることができなかった。藩主居館は周りに水堀をめぐらして土手を盛り、周囲を侍屋敷で固めていた。町家や下級の侍屋敷との間には「ごけん堀」があって、この堀に接する現在の大町に大手門が、地主町に裏大手があった。
中世一関城は史料がなく検証困難だが、公園整備にともなう発掘調査によると、釣山を中心に東西450メートル前後、南北400メートル前後に及ぶと考えられている。釣山は西を磐井川、東を吸川が流れる丘陵で、平野部のほとんどを眼下に見渡すことができる。高崎城とも呼ばれ、本丸は千畳敷という標高約90メートル、100メートル×50メートルの長方形である。本丸と同一レベルに続く丘陵に空堀が1カ所認められ、本丸以外は適度な落差で階段状に各郭が配されていたと思われる。千畳敷北東に虎口があり、南東には若干の高さの方形があって矢倉などの施設が想像される。西には小山があり脇に田村神社がまつられている。

歴史

奥州仕置によって葛西氏が滅亡した後、一関は豊臣大名・木村氏を経て伊達氏の領有となる。慶長(けいちょう)9年(1604)伊達政宗は叔父である留守政景(るすまさかげ)を一関に移し、寛文(かんぶん)年間(1661-1672)には政宗の10男・宗勝(むねかつ)が入部するが伊達騒動(原田甲斐の刃傷事件)によって宗勝は土佐(高知県)に配流、天和(てんな)2年(1682)田村建顕(たむらたけあき)が岩沼(宮城県)から移封になり、以後明治維新まで田村氏11代の藩主が一関を藩府として継承した。一関藩は仙台藩の支藩で磐井・栗原(宮城県)2郡3万石を領し、藩内では一門の扱いだったが幕府からは大名として扱われた。
近世以前、大同(たいどう)年間(806-809)には征夷大将軍坂上田村麻呂の陣地になったといわれ、天喜(てんき)年間(1053-1057)には安倍貞任の弟・磐井五郎家任(いわいごろういえとう)の砦に、康平年間(1058-1064)には源頼義・義家親子の篠見山の陣地になったと伝えられるが定かではない。一関城に葛西氏の家臣・小野寺道照が入城したのは天正年間(1573-1591)、葛西氏が石巻から登米(いずれも宮城県)に本拠地を移した際、すでに登米(とよま)を領していた小野寺氏を移封したものと考えられる。

交通

一関駅から車で約5分
東北道一関ICから約15分