いわての城・館
安倍氏の城柵

厨川柵(くりやがわのさく)

場所
盛岡市安倍館町
盛岡市天昌寺町
地図 ※擬定地

現在の名称
安倍館(あべたて)遺跡
里館(さたて)遺跡


地勢と遺構
■安倍館遺跡
北上川を東端とする河岸段丘縁に位置し川との比高差は15メートル以上、西に巣子川分流が流れる南北に細長い地形である。厨川八幡宮をまつる本丸とされる郭を中心に4郭と堀跡の一部が確認される。郭は本丸(東西110メートル、南北80メートル)を中心に、南に中館、南館が続き、北に北館、外館、匂当館が連なる。堀は空堀で幅10〜20メートル、深さ1〜8メートルほど。郭からは掘建柱建物跡がなど発見されている。

■里館遺跡
安倍館遺跡から北西に約1キロにあり、遺跡の範囲は明確ではないが東西600メートル、南北200〜300メートルと考えられる。旧河道との比高差は5メートル程度である。堀立柱建物跡、堀や櫓の跡などが残っている。出土した陶磁器や古銭から、15〜16世紀の城館遺跡と考えられる。

安倍館遺跡は江戸から明治時代までは厨川柵とされていたが、大正以降では安倍館、里館を含む広範な地域を厨川柵あるいは嫗戸(おばと)柵とする見解が示されている。現存する遺跡は、鎌倉時代の地頭で安土桃山時代までこの地を領した工藤氏の居館で、天正(てんしょう)20年(1592)に廃城となった中世厨川城と15世紀前半には成立していた厨川館、および城館が破却されて以降の近世下厨川村の遺構と考えられる。安倍氏の古代厨川柵の擬定地ではあるが、それを示す遺構は確認されていない。

国道46号と天昌寺

寺域全体が台地状に

台地の上にある天昌寺山門

曹洞宗の名刹・天昌寺

寺の脇を流れる川

歴史
厨川柵は前九年の役で滅亡した安倍一族最期の拠点で、安倍氏の勢力圏では最北端にあたり、城主は安倍頼時(あべのよりとき)亡き後、総大将となった次男・貞任(さだとう)である。南の衣川館とともに安倍氏の二大拠点であった。康平(こうへい)5年(1062)9月、源氏・清原氏の連合軍に包囲された厨川柵は激戦の末に落城、貞任や重任(しげとう)は捕らえられ処刑、宗任(むねとう)、家任(いえとう)、則任(のりとう)らは降伏、頼時の娘婿の藤原経清(ふじわらつねきよ・清衡(きよひら)の父)はわざと切れない刀で首を打たれ苦しみながら亡くなり、安倍一族は滅亡した。『陸奥話記』には「城中男女数千人」とあり、かなり大きな城であったことがうかがえる。安倍氏滅亡後、奥六郡は出羽の清原氏の支配下におかれたが、その間厨川柵がどのように利用されていたのかは不明である。

交通
盛岡駅から車で約10分

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