場所

奥州市水沢表小路(奥州市役所周辺)

現在の名称

水沢城跡

地勢と遺構

城は水沢段丘の微高地上にあり、市街地化が進んで遺構はほとんど確認できない。北西から流入する乙女川(御留川)が城の北辺にあたり、水堀としての役割とともに物資輸送路としても利用されていたと思われる。城の規模は不明だが、当時の絵図から想像すると東西320メートル、南北400メートルで、城内は本丸、二の丸、南屋敷、三の屋敷の4区画に分かれ、城の周りに壕をめぐらせていた。本丸は東西130メートル、南北110メートルで、本丸の東に隣接する二の丸は東西140メートル、南北150メートルほど。二の丸の南は三の丸で、市役所正面北側に城の表玄関である大手門や太鼓櫓があった。また、市役所前の市天然記念物・姥杉(うばすぎ)は三の丸の土塁に植えられていたものである。

歴史

城主は永和(えいわ)年間(1375-1379)に葛西氏の家臣・八谷(蜂谷)義胤が、その後は宇田源氏の一族である佐々木氏や大内氏らが続いたなど諸説ある。奥州仕置後の豊臣大名・木村吉清の領国時代を経て伊達政宗の所領となり、天正19年(1591)に伊達家一門の白石宗実(しろいしむねざね)が入城して慶長6年(1601)まで、さらに柴田氏2代、石母田大膳(宗頼)(いしもだだいぜん(むねより))と続き寛永6年(1629)に伊達(留守)宗利(だて(るす)むねとし)が金ヶ崎から入城して町づくりを進めた。町割りは、「小路」に重臣や中下級家臣の居住区を、丁に足軽、最下級下級家臣の居住区を置き、さらに柳町以下6町をその外周に配した。上下水道を完備した地区もあり、現道路の下から木樋が発掘されている。留守氏によって町づくりが進められた水沢は16,000石の城下町として明治維新を迎え、現在も武家屋敷が多く残る。

交通

水沢駅から車で約5分
東北道水沢ICから約15分