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 戦国時代に南部氏が支配していた津軽地方は、大浦(津軽)為信(おおうらためのぶ)のいち早い小田原参陣によって秀吉に公認され、南部氏の領地ではなくなりました。このことによって居城・三戸(さんのへ・青森県三戸町)は領内の北に片寄ってしまい、治府として地理的に不適当な位置になります。そこで南部信直(のぶなお)は九戸政実(くのへまさざね)の乱後、その居城だった九戸城(二戸市)を福岡城と改名し移り住みます。さらに、蒲生氏郷(がもううじさと)や浅野長政(あさのながまさ)の勧めもあり、居城を岩手郡仁王(におう)郷不来方(こずかた)に南進させることを決定します。新都市「盛岡」の誕生です。
 盛岡が選ばれた理由は、(1)北上川の水運が利用できる交通の要衝であったこと、(2)北方の渋民(しぶたみ・盛岡市)や沼宮内(ぬまくない・岩手町)などを経由して九戸城に達する街道沿いであったこと、(3)北上川と中津川に囲まれた花崗岩(かこうがん)台地からなる天然の要害であったこと、などが挙げられます。

 文禄元(1592)年、秀吉から内々の許可を受けた信直は整地作業を開始。築城開始には諸説あるものの、慶長3(1598)年説が妥当と思われます。築城の実際の指揮は信直の嫡子・利直(としなお)があたり、慶長3(1598)年の秀吉、翌慶長4(1599)年の信直の死などによってしばしば中断しましたが、慶長年間(1596〜1615)中ごろには一応の完成をみたようです。しかしその後もしばしば洪水の被害を受けるなどし、正式に居城として定められたのは寛永10(1633)年、三代藩主・重直(しげなお)が帰国入城した時です。実に36年の歳月を要したことになります。
 築城と前後して、街づくりも始まりました。城下の町割りは「五ノ字」型の街路とする政策がとられました。城を中心とした第一圏に500石以上の上級武士、第二圏には商人や職人、第三圏には500石未満の一般武士を、城下から村々に至る街道沿いには足軽(同心)が置かれました。上田組町や仙北組町がこれにあたります。さらに防衛上の見地から、城下北東の山麓に神社仏閣の移転と建立が行われました。
 侍町は最初、下小路(したこうじ・愛宕町付近)や上衆(かみしゅう)小路(馬場町付近)が作られ、その後、北上川の改修工事を経て大沢川原(おおさわかわら・大沢川原三丁目付近)、帷子小路(かたびらこうじ)、平山(ひらやま)小路(いずれも中央通三丁目付近)などが誕生しました。
 町人街はそれぞれ商人の出身地名を町名として生まれます。三戸からやってきた町人の「三戸町(さんのへちょう・本町三丁目付近)」が始まりで、秋田県仙北郡から来た町人の「仙北町(仙北一丁目付近)」などが作られ、慶安4(1651)年には「盛岡二十三町」が成立しました。

盛岡二十三町

仙北町(せんぼくちょう)→仙北1丁目

 仙北町という町の名は、二代藩主・利直(としなお)の時代に、秋田県仙北郡から移り住んだ人々を北上川の西岸に住ませてできた町と伝えられてきた。盛岡の交通の要所であるほか、紫波郡の大穀倉地帯を背景にしているので、大きな米穀商や酒屋があって栄えた町であった。

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鉈屋町(なたやちょう)→鉈屋町

むかし京都から豪商鉈屋長清が盛岡にやってきて、釶屋山菩提院(やおくざんぼだいいん)という寺を建てたのが町名の起りである。昔の鉈屋町には、水主町(かこちょう)、十文字、下町(したちょう)、お鷹道などがあった。水主(かこ)というのは、北上川の水運の舟や、舟橋の仕事をしていた。また、殿様の飼っている鶴に食べさせる小魚をとる役目もしていた。
鉈屋町は、宮古方面、釜石方面、金山の大萱生(おおがゆう)などからくる人の、はじめて盛岡に入る一本道だったので、ここでいろいろな買物ができることから、多くの大小の商売屋があった。大慈清水や青龍水は有名だが、この湧水は冬は湯気が立つほど温かいので、神子田(みこだ)、仙北町(せんぼくちょう)方面から野菜を持って来て洗い、馬町の青物市場に出す人が多かった。

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川原町(かわらちょう)・穀町(こくちょう)→南大通二丁目

 穀町は、のちにできた新穀町とともに、惣門(そうもん)を中心にした町。文化9(1812)年、二つの町に分かれた。両町と川原町には豪商が多く、糸治、木津屋、泉屋をはじめ、いろいろな商家がならび盛岡城下では、最も繁盛した地域だった。
穀町は、古くは三日町(みっかまち)といわれたが、師走の9、19、29日の3日間、新山河岸の御蔵の米を払い下げたため、穀町という名になった。惣門には、枡形と御番所、役人屋敷24戸があって、城下への物と人の出入りを取り調べた。門は朝6時に開け、夕6時に閉じた。また、穀町には旅館が多く、諸国や藩内の商人、旅人、北辺警備の東北諸藩の派遣隊が宿泊した。

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十三日町(じゅうさんにちまち)→肴町

 十三日町には、時を告げる大鐘が小高い堀端にあった。また、十三日町に材木屋があったのは遠曲郭(とおくるわ)の堀を山岸から材木を運んだため。宿屋も多かったのは、惣門、明治橋、馬町(うままち)に近く、旅人が出入りしたためだったが、紺屋が多かったのは中津川の水を利用し、家裏に空地があったためだといわれる。

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馬町(うままち)→清水町

 宝永7(1710)年3月に、盛岡ではじめて馬を売買する場所が決められた。それが先ごろまであった馬町のはじまりである。盛岡藩時代は下北(青森)地方からも来て、藩内の馬の売買は、全部この馬町に集まって行われたから大いに賑わった。明治23(1890)年、産馬組合ができると、馬町に馬検場が生まれ、馬町には、大きな家が何軒もあって、一軒の家だけで80人もの馬喰(ばくろう)を泊めたという。大正元(1912)年に馬町の馬検場は、新馬町(いまの松尾町)に移った。

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八幡町(はちまんちょう)→八幡町

 盛岡城ができて、ここに神社を設け、民心の安定と信仰の中心にした。盛岡八幡宮は延宝8(1680)年に社殿完成。八幡町は新しい町として誕生した。四代藩主・重信(しげのぶ)の時代である。庶民の参拝を許したので、城下や近郷近在から庶民が雲集して、さかんなお祭りになり、「流鏑馬(やぶさめ)」も行われ、今につづいている。
延宝8(1680)年の八幡町の市日は、1日、3日、6日、8日、11日、13日、16日とされ、他町で市を立てることを禁じた。そこで、八幡町かいわいは、年とともに繁盛して、門前町の典型として、歓楽街となったのである。

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葺手町(ふくでちょう・もとの屋根葺町・やねふきちょう)→中ノ橋通一丁目

 葺手町は肴町の北1丁半、屋根葺が多く住んでいた。紺屋町から葺手町へ出る横道を、愛染横町(あいぜんよこちょう)と言った。藩がはじめて瓦葺(かわらぶき)を許したのは、寛保元(1741)年である。布告には「これは火のもと用心のため許されるものだ。侍屋敷や寺町、どこの町にも許される」ということであった。火事が恐ろしいので、藁葺(わらぶき)、柾葺(まさぶき)より瓦葺が安全ということになったのであろうが、昔は大火が多かった。
葺手町の戸数は、天明8(1788)年の調べで38戸、住民は327人とある。同じ調べで大工町(だいくちょう)が226戸で715人とあるから、葺手町の方が、一戸当たりの住民の人数が多い。小さな長屋風の住居が並んでいたものであろう。

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肴町(さかなちょう)→肴町

 現在でも盛岡を代表する商店街の一つである肴町は、藩政時代には、盛岡城下・河南の扇のかなめのような位置と条件を備えて、繁盛した。北上川の河港川原町・新山河岸には、江戸からの回船が「下り物」を運び、日本海からは、野辺地港(青森湾の良港で、盛岡藩領)に陸揚げされた大坂(かみがた)の商品も入った。このような「上等な品物は肴町で」という常識が、明治・大正まで残っていた。

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新町(のちに呉服町・ごふくまち)・六日町(むいかちょう)→中ノ橋通一丁目

 もと新町と言い、呉服町と改称されたのは文化9年(1812)で、中町とも呼ばれていた。「盛岡砂子(すなこ)」に「呉服町は”札の辻”南二丁」とあるが、”札の辻”とは今の岩手銀行中ノ橋支店あたりで、毎月26日が新町の市日であった。慶応4(1868)年の「南部家御用金被仰付人員(なんぶけごようきんおうせつけらるじんいん)」番付によれば、西方大関、小野組最大の支店であった井筒屋善八郎を筆頭に、渋谷善兵衛(味噌醤油、呉服)、近江屋治郎兵衛(呉服)、井筒屋徳十郎(酒屋)、近江屋市左衛門(酒屋)、近江屋善六(質屋)、近江屋覚兵衛(呉服)等の豪商老舗が店を張っていた。
六日町は呉服町と上衆小路の間にあって二丁余。市日は毎月6日、16日で、ここには木津屋権治(醤油)、油屋孫六(油屋)等の店があった。盛岡中央郵便局の前身・盛岡郵便役所が明治5(1872)年5月に開設されたのはこの六日町であった。

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紺屋町(こんやちょう)・鍛冶町(かじちょう)・紙町(かみちょう)→紺屋町

 慶長年間、盛岡城下には上・中・下の中津川三橋が架けられ、上の橋と中の橋との間には、中津川東岸に沿って上流の方から紙町、鍛冶町、紺屋町という一続きの大きな町並みがつくられた。この町並みには、幕末ごろには紺屋町の鍵屋茂兵衛、沢井屋九兵衛(茣座九(ござく))、井筒屋伝兵衛、また鍛冶町の向井屋半兵衛、鍵屋定八、あるいは紙町の井筒屋弥兵衛、大塚屋宗兵衛などという屈指の豪商老舗が軒をつらねて、盛岡城下における主要な商店街となっていた。いまも紺屋町の茣座九の店構えには、昔の盛岡の古い面影がある。
また、ここの道路は、藩政時代の奥州道中(街道)の要路にあたっていた。当時の奥州道中は、穀町(こくちょう)の惣門(そうもん)を入ってここを通り、上の橋を通って本町(ほんちょう)から上田方面に向かっていた。そこで鍛冶町の中程には道標があり、それを起点として藩内四方への里程を測ったものだった。

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本町(ほんちょう)・油町(あぶらちょう)・大工町(だいくちょう)・寺町(てらまち)→本町通一丁目

 本町は盛岡城の大手先を東西に走る奥州道中の一部になっていて、京都方面から下ってきた商人が多く住んでいたので、はじめは京町(きょうまち)と呼んだが、文化年間(1804〜18)になって本町と改められた。幕末のころには日野屋市兵衛、大和屋茂右衛門、高田屋伊助、岩井屋権助、鍵屋伊兵衛などの店鋪がつらなり、河北地区の主要な商店街となっていた。
また、本町につづく西の町並みは八日町といい、本町の北裏には油町や大工町があった。油町には、油屋や荒物屋や牛馬宿があり、大工町は、むかし多くの大工職が住み、大工小頭(こがしら)がいたところだった。そして本町から北山の寺院地区に通ずる道筋は、古くは寺町と呼んだが、そののち文化年間になってから、花屋町(はなやちょう)と改められた。

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八日町(ようかちょう)→本町通二丁目

 八日町は文化9(1812)年に本町と改名された京町(きょうまち)の西隣で、本町は毎月28日、この町は8日が市日であった。本町の市日に準じて、他町の市日に比して上方雑貨の商いの多いのが目立っていたという。また、八日町の北に四ツ家町があり、上田への出口・赤川橋の手前に四ツ家御門があった。またこの付近には、北に入る袋丁があり、谷小路(たにこうじ)という侍屋敷があった。

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三戸町(さんのへちょう)→本町通三丁目

 南部家先祖代々の三戸城下の庶民を盛岡の新地に移住させたのは元和3(1617)年、二代藩主・利直(としなお)の時代で三戸町と名付けられ、城下では最初の町人町の一つであった。
三戸町はもと大四ツ家(日影門外)の地域であったが、のち水田地帯の中に造成された町に移されたことから「田町(たまち)」とも言われた。ここではじめて月の11日、21日の市日がたてられ、米穀等の取り引きから馬買いなどまで行われ、非常な繁栄をみせたらしい。延宝8(1680)年、三戸町に鐘楼(しょうろう)が建立された記録がある。その鐘は、同年盛岡城天守閣屋上の鯱を鋳造した小泉五郎七作である。

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長町(ながまち・のちに長イ町・ながいちょう)→長田町

 長町とは、城下の町々のうちで最も長いところから名付けられた町名だが、文化年間には「長イ町(ちょう)」と呼ばれたこともあった。寛政11(1799)年に、長町の若者25人が消防を勤めたいと藩に願い出たが、これが盛岡の町方消防組の起りだといわれている。また藩政時代には長町の東側の中程に、未決の犯罪人を入れる「揚屋(あがりや)」という牢屋がおかれていた。

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材木町(ざいもくちょう・もとの磐手町・いわてちょう)・久慈町(のちに茅町・かやちょう)→材木町

 材木町は、むかし磐手町といった。明暦元(1655)年に材木町と改め、そののち、柾町(こばちょう)と呼んだりしたが、文化年間(1804〜18)になって材木町と定められた。また材木町に続く北の町並みは、むかしは久慈町といったが、これも文化9(1812)年に茅町と改められた。
藩政時代の材木町から茅町は、滝沢、厨川、雫石方面をひかえた商店街として栄え、幕末のころには近江屋勘兵衛、恵比寿屋助右衛門、宮田屋重治、豊島屋喜之助などの大きな店が建ち並んでいた。

 ここから新田町へ通ずる夕顔瀬橋は、洪水のたびに流失したので、明和2(1765)年に北上川の中に大きな石で中島を築いて橋桁(はしげた)を高くして架橋したもので、関東以北にこれに匹敵する橋がないといわれた。茅町側の橋のたもとには、夕顔瀬の惣門(そうもん)と御番所(ごばんしょ)とがあった。

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いわての文化情報大事典(いわての城・館:盛岡城